「城あとに やかたも人も いまはなくて かたるは何ぞ 山鳥の声」(柳原白蓮)
標高432mの『高森山』、木曽川から山頂までの高度差約170mの地に築かれた山城『苗木城(なえぎじょう)』。
鎌倉時代より美濃国恵那郡を中心に『遠山七家』(岩村・明知・苗木・飯羽間・串原・明照・安木)が治め、そのうち苗木の遠山氏が木曽川以北と加茂郡の東部を支配しており、苗木城の築城は1526年に『遠山昌利』が高森山に館を移した際とも、1532年頃に『遠山正廉(まさかど)』によるとも言われています。
織田信秀の4女(名不詳・織田信長の妹)が『桶狭間の戦い』(1560年)に出陣した『苗木勘太郎(かんたろう)』【説では遠山直廉(なおかど)】に嫁いでおり、武田晴信(後の信玄)の甲斐武田氏に帰属していた苗木遠山氏は織田方とも属することになり、両氏の外交を仲介することになりました。
また、斎藤龍興(たつおき)を討つ『美濃攻め』を進める際の武田家との同盟のために、生まれた娘(雪姫:龍勝院)は織田信長の養女になります。1565年に武田勝頼の正室として嫁ぎ嫡男(武田信勝)を出産し、苗木遠山氏は両氏の友好にとって大きな役割を果たしました。
戦国の世の常、織田信長の美濃攻め後は同盟が続くことは無く、信玄亡き後に織田信長・徳川家康の甲州征伐が始まり1582年の『天目山の戦い』において16歳の武田信勝は父・勝頼と共に補足され自害し甲斐武田氏は滅亡することになります。
織田信長が討たれた『本能寺の変』(1582年)後には、羽柴秀吉に属した『森長可(ながよし)』の東美濃への進行によって1583年に秀吉に従わなかった苗木城は落城し、当時の城主『遠山友忠』は徳川家康を頼り落ち延びます。
友忠の子『遠山友政』が、『関ヶ原の戦い』(1600年)に豊臣方から苗木城を奪回したことで、徳川家康からその功績が認められ、再び苗木城に入城し明治維新までの12代で260余年続く石高1万521石の『苗木藩』が成立することになりました。
通常は石高が1万石余りの大名が城を持つことはなく、数ある1万石級の大名の中で苗木藩のみが戦国時代の面影をとどめる城を幕末期まで構えていました。
苗木城は、山城が故に地形の制限があり利用できる土地の確保が困難であったため、巨大な岩などを利用した石垣が構築され、時代によって野面石乱層積み・ノミ切り加工整合積みなどの6種類の石垣が積まれています。
また、3層の天守含め櫓などは柱を立てるために岩に穴をあけて建物を建てる『懸造(かけづくり)』が用いられていました。
天守の壁は白漆喰ではなく赤壁がむき出しになっていることから『赤壁城』とも呼ばれ、白い色を嫌った竜が白壁を剥ぎ取ったいう『赤壁城伝説』として語られています。
小藩である苗木藩は、当初から幕府からの大規模な土木建築工事を命じる『手伝普請(てつだいふしん)』や石高に応じた『軍役(ぐんやく)』などの動員によって、天守の壁を白漆喰で覆うことができないほど財政が窮乏していました。
第3代藩主『遠山友貞(ともさだ)』による新田開発で4286石の新田を開発しましたが、5代・6代藩主の大坂・駿河城を警備する『加番(かばん)』による出費が重なり財政を改善できるまでには至りませんでした。また、1732年には7代藩主による相続で500石を幕府に返上することになります。
12代藩主『遠山友禄(ともよし)』が、1843年に砂土原藩主『島津忠徹(ただゆき)』の5女『嘉姫(よしひめ:美姫)』を正室に迎えました。
嘉姫は13代将軍『徳川家定』の正室『篤姫(あつひめ)』の従姉妹でもありました。
遠山友禄は、嘉姫との婚姻を機に幕府の要職となる城中の礼式を管理する『奏者番(そうじゃばん)』などや老中の補佐や旗本・御家人を統括をする『若年寄(わかどしより)』を任されることになります。
1863年には大坂警備を経て再び若年寄になり、1865年には14代将軍『徳川家茂(いえもち)』の第2次長州征伐に随行するため大坂城に入りましたが、1866年に家茂が大坂城で病に倒れ没したために江戸へ戻ることとなりました。
それらの度重なる出費が、苗木藩の財政を著しく逼迫することになり、藩札の増刷・厳しい倹約令・年貢の借り上げなどを行われました。
明治維新後には14万3千両・藩札1万5900両の借金があり、廃城に伴う苗木城の建材や武具の売却と、家老に相当する明治時代初期の役職『大参事(だいさんじ)』に抜擢された下級藩士『青山直道(なおみち)』による藩士全員の強制的な帰農と家禄の返還、帰農法により政府から支給される扶持米の3年間返上、遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費として提供することによって借金を1/3まで減らすことができましたが、帰農した旧藩士の生活が困窮することになり自殺者まで出るに至りました。
また、復古神道を掲げる『平田篤胤(あつたね)』の門人であった青山直道は神仏習合を廃して神仏分離を押し進める『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』を主導し、苗木領内の17ある全寺院の打ち壊しと僧の還俗、仏像・仏具・経典・位牌までも徹底的に破棄させました。
それらのことから、旧藩士は青山直道に対して恨みを募らせ1876年に暗殺計画を決行し失敗に終わるが屋敷に火を放ちました。村人たちはその燃えさかる屋敷を見ても誰一人として火を消そうとした者はいなかったと言われています。
天然の要害としてそびえた苗木城。
その天守跡に築かれた展望台に向かう道筋には、時代によって様々な積み方をされた石垣にそれぞれ出会う事ができ、各所にある石階段を上がっていくと少しずつ青い空に近づき景色が開けていきます。
天主展望台からは一面の深緑の木々とともに木曽川を眼下に見渡し、遠くには天照大神が降誕された恵那山を眺めることができ、1500年頃から主だった人物が一望していた眺望を時代を超えて重ねられます。
平和な時代に築かれた平城と違い、戦国の時代に織田と武田の両氏に挟まれ常に戦いに晒され、日本の歴史に名を連ねる人物が交差し、多くの血が流れることで幾百年と護られてきた山城・苗木城。
今ではこの地に石垣だけを残し、何も無き城跡が当時の面影を語るだけになっています。