「いとかたく指すところをば守る波東尋坊に重なりて寄る」(与謝野晶子)
日本海に突き出た、およそ1200万年前に噴出した溶岩が冷えて固まった巨大な輝石安山岩であり『柱状節理(ちゅうじょうせつり)』の海食崖で、最大約25mの高さの断崖絶壁を形成し国の天然記念物に指定されている『東尋坊(とうじんぼう)』。
『柱状節理』の『柱状(ちゅうじょう)』とは、マグマが冷えて固まった火成岩が柱状になった状態のことで、六角柱状のものが多いが五角柱状や四角柱状のものもあり、『節理(せつり)』は比較的規則正しくできる岩石の割れ目のことで、外的要因で剥がれ取られやすいため風化や浸食などを引き起こし『東尋坊』の縦方向の縞や筋の貴重な景観を生み出しています。
『東海道新幹線(東京-大阪)』が開通し『東京オリンピック』が開催された高度経済成長期の1964年に、全高54.7mの『東尋坊タワー』が建造されました。岩場から約300m続く『東尋坊商店街』は観光客で賑わい、1991年には182万人もの人々が訪れるほどになります。
しかし、バブル崩壊後は旅行形態が団体から個人に変わってきたため観光客は減少し2000年代初頭には90万人ほどに落ち込みましたが、少しずつ持ち直し2015年『北陸新幹線(長野-金沢)』の開業に伴い148万人まで回復しました。
時が経つことで現れてくる『東尋坊タワー』を含めた建物の老朽化と空き店舗の増加、観光客の伸び悩みなどの問題を抱えており、行政の力も加えた「石畳の舗装」や「無電柱化」そして空き店舗を使った「観光交流センター」を設置するなど活性化に苦心しています。
各店舗も無策なわけでは無く、訪日外国人観光客が増えていることもあり店舗を免税店化したり、昭和の雰囲気を漂わせている中に現代的なお洒落な店舗も増えてきています。
「古きもの」と「新しきもの」とが、どのように融合し展開されていくのか、断崖絶壁を背にした『東尋坊商店街』の取り組みを時折訪れることで、『東尋坊』の雄大な姿とともに移りゆく時代の変化に関心を持つのも良いかもしれません。
「しつむ身のうき名をかへよ法の道 西をたつねて浮へ後の世」
今は昔、比叡山延暦寺の末寺となっていた越前勝山の『平泉寺(へいせんじ)』には数千人の僧がいました。
その中で、一人の僧『東尋坊』はとても力が強く粗暴で手が付けられず好き放題に悪行を重ねており、『平泉寺』の僧たちはすっかり困り果てていました。
1182年4月5日、『平泉寺』の僧たちは海辺見物へ出掛ける際に『東尋坊』にも声をかけて誘いました。
一同が高い巌壁(がんぺき)から海を見下ろせるその場所に着くと酒盛りが始まり、天気も良く眺めの良い景色も手伝い酒がすすみ、踊り出す者も出てきました。
そのうちに、『東尋坊』も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めました。
『東尋坊』のその様子をうかがうと一同は目配せをし、『真柄覚念(まがらかくねん)』という寺侍に合図を送りました。
『真柄覚念』はここぞとばかりに『東尋坊』を巌壁の上から海へ突き落としました。『平泉寺』の僧たちの狙いは『東尋坊』を酔わせ巌壁から海へと突き落とすことでした。
『東尋坊』は突き落とされながらも、近くにいた者を道連れに巌壁の下へと落ち波間に沈んでいきました。
ところが、『東尋坊』の怨みはすさまじく、それまで太陽の輝いていた空に、たちまち黒い雲が渦を巻き空を黒く染め、豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え出しました。『東尋坊』の怨念は自分を殺した『真柄覚念』をその巌壁の底へと吸い込んでしまいました。
以来、毎年『東尋坊』が落とされた4月5日の前後には激しい風が吹き、海が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり東を尋ねて『平泉寺』に向かったと言います。
この近くに住む漁師たちは、漁に出ることができないだけでなく、毎年の祟りを恐ろしく思い『東光寺(とうこうじ)』の『瑞雲(ずいうん)』僧正に相談しました。早速、『瑞雲』僧正は岸にのぞみ『東尋坊』の霊を弔い、手向けの詩をつくり海に投じました。
「好図見性到心清 迷則平泉不太平 北海漫々風浪静 東尋何敢碍舟行」
すると、毎年続いていた『東尋坊』の祟りが、この日を境になくなりました。
それから、人々はこの巌壁を『東尋坊』と呼ぶようになったと伝えられています。