「戸がくしの御神は世にすぐれし大神なれば一千人の力を出し 天岩戸のおん戸を取り投げさせ給へば信濃国戸隠ヶ嶽にぞ着き給う」

まだすべての雪が溶け切らない頃、新たな生命が芽吹き始めた『戸隠神社(とがくしじんじゃ)』・奥社への参道。
江戸時代に徳川家康より朱印高千石を拝領され、1612年頃から参道や境内に植樹された杉は樹齢400年にもなり、500mほど続くその威風堂々たる杉並木は参詣者に対して荘厳な景色を魅せてくれます。

神代の時代に太陽の神・天照大御神が隠れた『天の岩戸』を『天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)』が無双の神力を持って飛ばしてできたのが『戸隠山』と言われています。
その麓にある戸隠神社は、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなり創建は前210年の二千年余りの歴史を刻んだ神社です。奥社の御祭神は『天手力雄命』で開運・心願成就・五穀豊熟などの御神徳があります。

平安時代後期には修験道の霊場であり、神道と仏教が習合(神仏習合)された『戸隠山顕光寺』と称し、当時は『戸隠十三谷三千坊』と呼ばれ、比叡山、高野山と共に『三千坊三山』と言われるほど多くの修験者や参詣者を集めました。
しかしながら、明治維新後の神仏分離の対象となり廃仏毀釈の風潮も生まれ神領は没収、寺は切り離され宗僧は還俗して神官となり、『戸隠神社』として現在に至ることになります。

「信濃なる 北向き山の 風誘い 妖し紅葉 疾くと散りけり」

戸隠には鬼女紅葉伝説が伝わっており、937年のこと奥州会津に住む夫婦には子がなく、『第六天の魔王』に願ったところ女児を得て『呉葉(くれは)』と名付けます。美貌と琴を弾く才知に恵まれた呉葉は、庄屋の息子を妖術でだまし大金を手にし『紅葉(もみじ)』と名を改め京の都に上がります。その美しい姿と琴の音は都中の評判となり源経基(つねもと)の寵愛を受けることになりました。
側室となった紅葉は経基の正妻を『第六天の魔王』の力を借り呪術で亡きものにしようとしたがその企みが露見し戸隠に追放されます。

956年、19歳で罪人として戸隠・水無瀬に流されましたが呪術で村人の病を癒し、裁縫や琴を教えたりとその紅葉の善行は村々から尊ばれることになります。
しかしながら栄華な都への思いが断ち切れない紅葉は、次第に鬼の心を宿し山賊を呪術で従え京に戻る資金作りのため悪事を働くことになり、その行いは『戸隠の鬼女』として京の都にも伝わることとなりました。

鬼女・紅葉の討伐に『平維茂(これもち)』が任じられますが、その行く手を火の雨・大洪水と紅葉の妖術により阻まれます。打つ手がなくなった維茂は北向観音に17日の断食の願をかけ、夢枕で白髪の老僧から『降魔の剣』を授かります。
969年、鬼女・紅葉は剣の力により妖術が使えなくなり一刀のもとに首をはねられ、その首はどこかへ飛び去ってしまいました。呉葉こと紅葉、鬼女と呼ばれた33年の生涯でした。
この伝説は、室町時代から江戸時代にかけて題目『紅葉狩』として能や浄瑠璃、歌舞伎で描かれました。

紅葉がたどり着いた戸隠の水無瀬には、東京(ひがしきょう)・西京・高尾・東山・清水・二条・加茂川など、紅葉が京を懐かしみ名付けたと言われる地名等が数多く残っています。
また、水無瀬は紅葉が討たれた以降、鬼無里(きなさ)と呼ばれるようになったとされています。

その鬼無里に伝わる伝説には、紅葉は鬼女ではなく医薬や手芸、文芸などに優れた女性であり、村人に恩恵をもたらす『貴女』であったと伝えられています。戸隠に追放になったのは紅葉が経基の子(経若丸)を宿したことによる正妻の嫉妬であり、生まれたのが男児であったためその成長を恐れ紅葉は鬼女として討たれてしまったとも言われその真実は定かではありません。

「鬼すだく 戸隠のふもとの そばの花」(与謝蕪村)

戸隠山は平安時代には修験の霊山として知られおり、米・麦などの五穀断ちをしていた修験者は『そば粉』を水に溶くまたは練って焼くなどと携帯食として珍重していました。
元来、戸隠の地は積雪高冷地のため稲作には向いておらず、そばやあわなどの雑穀が主食となっていました。特に戸隠では霧下気候の風土であったためそばの味が良いことで知られました。

現代のように、『そば切り』が戸隠で始まったのが江戸時代と言われ、水の神・農業の神として広く信仰されその御神徳を頂くために組織された戸隠講に訪れる多くの人々や参詣者にもてなした『戸隠そば』の美味しさは全国に知れ渡ることになります。

戸隠そばは、根曲がり竹細工のざるに『ぼっち盛り』で提供されます。
これはひとつまみ分の分量を1ぼっちとして、5~6ぼっちを並べるのが通常で食べやすく見栄え良くみせたおもてなし料理の名残だと言われています。