「あしたに仰ぐ聖岳 夕べに望む兎岳 けだかく清い山々に 遠い未来の望みかけ 深く正しく学ぼうよ 木沢 木沢 木沢小学校」(岡本敏明 詞「木沢小学校校歌」より)

長野県の南端、標高3120mの「赤石岳」に「聖岳」や「兎岳」が連なる「赤石山脈」(南アルプス)の西麓から「伊那山地」の東面傾斜地に挟まれた山間の渓谷一帯の秘境『遠山郷(とおやまごう)』、そして林業の隆盛と共に118年を歩み約2000人の卒業生を輩出し廃校となった『木沢小学校(きざわしょうがっこう)』。

長野県の「諏訪湖」を水源とし、伊那盆地を南流して太平洋「遠州灘」へと注ぐ河川延長1569kmの「天竜川」の支流であり、山間の渓谷『遠山郷』と呼ばれる飯田市の南信濃を流れる「赤石山脈」南部の山岳を水源とする河川延長39.3kmの「遠山川」の流域一帯は、かつては洪水や傾斜地崩壊など自然災害が頻発する地帯でした。
そして、明治以降から現代までの合併と分離を繰り返す以前、『遠山郷』一帯が「遠山六ヵ村」と呼ばれたこの地域のほとんどが山地や原野で、狭いわずかな平地と山間の傾斜地での農業に依存していました。

「信濃國 江儀遠山庄」(「吾妻鏡」より)

「遠山」の名は、鎌倉時代末期の1300年頃に成立した編年体の史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」に『江儀遠山庄(えぎとおやまのしょう)』と記されているのが初出で、年貢が未納の荘園などに催促を命じた1186年3月12日の記述に他の名と共にあがっています。
その当時の『江儀遠山庄』は地頭「北条時政」が治めていた荘園で、美濃の「遠山」と区別させるために、信濃の「遠山」は「赤石山脈」南部に位置する標高2392mの「池口岳」の古称と思われる「江儀岳」の名を冠したと考えられています。

そして、室町時代に入り治安維持および武士統制のための地方官「守護」の力が増し、1467年の「応仁の乱」により「室町幕府」の権威が低下したことで世が戦国の時代へと移り変わり、『江儀遠山庄』において勢力を持った氏族が『江儀遠山氏』と言われ、「遠山景廣(かげひろ)」が初代とされていますが、そこまでに至る系譜経歴は定かではありません。
しだいに『江儀遠山庄』での勢力が強まると、「遠山景廣」は「遠山川」の北岸を居城にし遠山氏の先祖が1214年に築城したと考えられる「長山城」から、1553年頃に渓谷の中央に位置する「和田盛平山」に居城を移し「和田城」を築城しました。

1553年に「武田晴信」(武田信玄)が伊那方面に進行した際に、「遠山景廣」は武田氏の軍門に下り、1569年には姻戚関係にあったが今川氏に属していた「遠州奥山氏」を攻めました。
1575年の「織田信長」と「徳川家康」の連合軍と「武田勝頼」軍が戦った「長篠の戦い」では、「信濃先方衆(しなのさきかたしゅう)」として軍糧の輸送を担当しました。

「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」(北条夫人:武田勝頼継室)

「武田勝頼」は、「長篠の戦い」において大敗北を喫したことでその威信は失墜し、1582年2月に「織田信長」は木曽口と岩村口より伊那方面に侵攻する「甲州征伐」(武田征伐)を開始しました。
織田軍の侵攻に同調し「徳川家康」は駿河方面より、「北条氏政」は相模・伊豆・上野方面より武田氏討伐のために動きます。

「遠山景廣」は、「武田勝頼」の異母弟「仁科盛信(にしなもりのぶ)」が3千(5百とも)の兵と共に守る「高遠城」へ駆け付け、「織田信忠」が率いる兵5万(3万とも)を迎え討つために籠城しましたが、3月2日に織田軍の早朝からの猛攻撃を受けて「仁科盛信」は自刃し、「遠山景廣」は一族8名と家臣140名と共に討ち死にし「高遠城」は落城しました。
この落城により「織田信忠」が率いる織田軍は伊那方面から甲斐へと侵攻し、3月11日の「天目山の戦い」において「武田勝頼」が自刃ないしは「伊藤永光」に討ち取られたことで武田氏は滅亡しました。

「折立長老碑」(犬養毅敬題)

「遠山景廣」の跡を継いだ「遠山景直」は、「織田信長」が自刃した1582年6月2日の「本能寺の変」以後に南信濃一帯が「徳川家康」の支配下に入ったことで徳川氏の陣営に加わることになり、1585年の徳川軍が「真田昌幸」と戦った「上田城の戦い」では、「遠山景直」は下伊那の諸侯と共に出陣します。
戦いは徳川軍の敗北ですが、戦場での活躍が認められて1596年頃に「徳川家康」に謁見し、「遠山」の領土3千石の安堵を得えたことで遠山氏の全盛期を迎えました。
その後、1614年10月の「大坂冬の陣」と1615年5月の「大坂夏の陣」に徳川方で出陣し、1615年9月に「和田城」にて没しました。

「遠山景直」の跡を継ぐ「遠山景重」は、病弱で子が無いまま1617年に病死したことにより跡目を争う「御家騒動(おいえそうどう)」が起こり、幕府が介入し騒動を鎮めようとしますが収まらず領民にまでその影響が及んだことから、遠山氏の所領や家禄・屋敷は没収され「士籍(しせき:士族の身分)」からも除かれてしまう「改易(かいえき)」となり、遠山氏はあえなく滅亡しました。
そして、没収された「遠山」の地は、幕府直轄の支配地「御料所(ごりょうしょ)」(天領)となりました。

滅亡したとは言え遠山氏の一族は、「改易」後に帰農し名主(なぬし)として「遠山」の地に留まりました。

「遠山川の水は澄み 涼風わたり鮎おどる われらも元気はつらつと 小魚のようにとびはねて 強く雄々しくそだとうよ 木沢 木沢 木沢小学校」(「木沢小学校校歌」より)

1674年に、生活のための薪炭材や肥飼草を採ること許された「百姓稼山(ひゃくしょうかせぎやま)」に「遠山」の山々が指定され入山が許されますが、中腹以上は「御料所」として立ち入ることは禁止されていました。

1677年以降の「遠山六ヵ村」の一帯は他の伊那地方同様に、幕府直轄の御林(おはやし)である「榑木山(くれきやま)」(御榑木山)に設定され、山々一帯を「榑木成村(くれきなりむら)」として他国の者の立ち入りを禁じました。
山々一帯は、米が取れないため年貢米の代わりとして、杉・檜(ヒノキ)・椹(サワラ)などを「榑木(くれき)」と呼ばれる、1mほどの長さに切ったものを8等分に割って真ん中の芯を取り除いた材木にしてから、「遠山川」を通し「天竜川」に1挺(本)ずつ流す管流(くだながし)で川下げされました。
その当時は、「榑木」1挺が年貢米6合、金1両で350挺、米は1両で2石1斗(約315kg)に勘定されていました。

川下げされた「榑木」は、100kmほど下流の舟明(ふなぎら)と対岸の日明(ひやり)に張られた留網(とめづな)にかけられて陸揚げし山積みとなって保管され、需要に応じて河口の遠州・掛塚(かけつか)まで「榑木」で筏(いかだ)を組み運ばれ、そこから船積みされて幕府の御用材として江戸へ、一部は払い下げられ全国に運ばれて行きました。

「榑木」には、主にヒノキ科の常緑針葉樹である椹(サワラ)が使われ、軽くてやわらかい材なので加工がしやすく耐水性と耐湿性に優れており、檜(ヒノキ)に比べて光沢や香気がないのが特徴で、ノコギリを使わずに鉈(なた)で簡単に板にすることができたため、屋根や壁などの建築資材としてだけでなく水桶や風呂桶にも使用されました。

「すべて御材木は所々國々よりたづねもとめいだすといへども、事しげければよその事實はもらしぬ。是は信州遠山のことのみを書しるすとなり。」(華誘居士 著「遠山奇談」より)

椹(サワラ)を「年貢榑木」として納めていた「遠山六ヵ村」の山々一帯は、わずか数年間で約30万挺にも及ぶ「榑木」を産出したこともあり、1692年までの過度の伐採によって椹(サワラ)が切り尽くされた状態「尽山(つきやま)」となり、1776年以降は年貢を貨幣で納める「金納(きんのう)」となりました。

1718年に、マグニチュード7.0の「遠山地震」が一帯を襲い、山が崩れせき止められていた「遠山川」が決壊したことで死者50余名を出し、1719年の「亥年の満水」では1/3の田畑が流されるなどの被害を受け、1726年・1731年と度重なる水害と天候不順によって「享保の飢饉」に見舞われ多数の餓死者を出すことになりました。
過度の伐採が、洪水や傾斜地崩壊などの水害を引き起こした原因ではないかと考えられています。

1788年、京都で発生した「天明の大火」(京都大火)によって焼け落ちた「東本願寺」の再建のための材木を、「遠山」の25の山々から伐り出しています。
その経緯を「華誘居士(かゆうこじ)」が、1798年に山中の不思議と珍しい鳥獣が現れる奇怪な紀行文として「遠山奇談」を京都で発刊したことで、秘境の地として「遠山」の名が知られることになりました。

「黒田忠一等から、信州下伊那郡和田村の和田村外五カ村共有の遠山山林を一〇万九、〇〇〇円で購入」(「王子製紙山林事業史」〔1976年〕より)

明治維新後の1872年(明治5年)に、土地・租税制度の改革「地租改正(ちそかいせい)」により中腹以下の山々「百姓稼山」は公有地となり入山が禁止され、1875年(明治8年)以降は「遠山」の5つの村(連合村)の共有林となります。
急速な近代化に伴い木材需要が高まりますが、その事情に疎かった「遠山」の人々は共有林の開発を政治家や資本家に委ねることになります。

1895年(明治28年)までの期間は17種類の材木の伐採権に限られており、その伐採権の譲渡を巡って山林業者が争っていました。
伐採業に携わる「遠山」の人々にとって伐採の日当として13銭(米10kgが80銭・砂糖1kgが14銭・蕎麦1杯が2銭 ※明治28年時)の収入を得たことにより生活が向上したことで、各地に飲食店や雑貨商が見られるようになりました。

1895年(明治28年)12月に、村と伐採期限50年の年延契約された伐採権が、実業家「渋沢栄一(しぶさわえいいち)」が中心になり輸入に頼っていた洋紙の国産化を目指し設立した「王子製紙(おうじせいし)」へ譲渡されたことで、その様相が一変します。
1896年(明治29年)から1922年(大正11年)の操業停止までの26年余りの期間に、製紙原材料用に樹木の種類を問わず至る所を伐り尽くす大乱伐が行われ、「遠山」の山々一帯は荒廃していきます。

しかしながら、景気の好況期と結びついた後半期は、全国各地から人夫(労働者)を含めた約1000人が入山したことで、江戸と京都を結ぶ街道「中山道(なかせんどう)」の宿場の一つ「和田宿(わだしゅく)」には多くの旅館や料亭・飲食店などが建ち並び、昼夜を問わず大いに賑わいました。

1926年以降の昭和初期から、共有林の良材をすべて伐り尽くしたため収入が減り生活が苦しくなった「遠山」の人々による山の中腹以上の国有林の払い下げを求めた運動が始まります。
第2次世界大戦中の1940年代から、飛行機や船舶などの軍用資材として国有林の伐採が開始され、それに合わせて宮内省の外局「帝室林野局(ていしつりんやきょく)」によって軍用資材の搬出を主な目的とした「遠山森林鉄道」が着工し、1944年(昭和19年)から運行が開始されました。

これまで河川を使った木材の運搬は「遠山森林鉄道」よって大きな変化をもたらし、木材の大量運搬だけでなく地域住民や登山者の足としても活躍しました。
最盛期には総延長30.5kmの路線があり、5社の民間企業が機関車7両を所有し、運材台車などの貨車242両・人員輸送車5両などが稼働し、民間企業が運材台車一台あたりの契約で「帝室林野局」(皇室財産の解体により1947年からは営林署)に軌道使用料を払い、伐採した木材を各社各々の機関車を使い運びました。
木材景気に沸いた1950年以降(昭和25年以降)の「遠山」一帯には約1700戸・9000人以上もの人々が暮らしていました。

しかしながら、しだいに伐採地が急峻な奥地へと進んだことと豪雨などの水害による軌道の被害や、林道の整備によるトラックでの運搬が増加したことによって採算性が悪化し、1968年(昭和43年)に「遠山森林鉄道」の廃止が決定されます。
しばらくは民間業者によって運行されていましたが、1973年(昭和48年)に軌道が完全に撤去され「遠山森林鉄道」はその姿を消すことになりました。

当時、戦後復興による木造住宅や燃料として全国的に木材需要が増えたため、国産材が不足し木材価格が高騰しており、その木材価格の安定のために1960年(昭和35年)から段階的に木材輸入が自由化されて、1964年(昭和39年)に全面自由化されたことで「外材(がいざい)」(輸入木材)が急増することになります。
1970年(昭和45年)には国産材自給率が45%まで減り林業の経営が全国的に成り立たなくなり、2000年(平成12年)には18.2%まで落ち込みますが、合板原料に杉(スギ)を利用することなどが進み2017年(平成29年)には36.1%まで増えており、「林野庁」は2025年(令和7年)には国産材自給率50%以上を目指しています。

1897年(明治30年)・1961年(昭和36年)・1965年(昭和40年)などに乱伐を要因とする水害が「遠山」で発生しましたが、現在では伐採跡に松や杉などの植林地が広がっており、永きに渡り「遠山」の産業を支えて来た当時の山々の姿をほとんど確認することはできなくなりました。

「杉の木立にかこまれた 平和の里をになうのは われらのつとめともどもに あすの栄をきずくため きたえはげもう意気高く 木沢 木沢 木沢小学校」(「木沢小学校校歌」より)

2007年(平成19年)9月、捨てられていた2匹の仔猫を巡回していた駐在さんが見つけました。
しばらくして1匹は亡くなり、もう1匹は「旧木沢小学校」のすぐ近くの家の飼い猫となりますが、2年後に飼い主のやむを得ない理由による引っ越しのため「旧木沢小学校」へと移り住むことになりました。

飼い主の名字の一文字「高(たか)」と、周囲にそびえる「赤石山脈」(南アルプス)の山々からの「峰(みね)」を合わせ、「高峰(たかね)」と名付けられたキジトラの雌猫は、いつしか校舎内を歩く姿から「猫校長」または「たかね校長」とみんなから呼ばれるようになり、廃校後の『木沢小学校』に人を呼ぶ役を担うことになります。

1872年(明治5年)10月1日に、木沢村木沢地区共有舞台を校舎に児童数14名の「修身学校」が発足し、1904年(明治37年)には「木沢正八幡神社」の舞台向かいに児童69名が通う「木沢尋常小学校」の校舎が建てられました。
1930年(昭和5年)9月11日に、木沢の町一帯を焼く大火により校舎が焼失しますが、町の復興と並行して新しい校舎の建設が始まり、1932年(昭和7年)3月に「遠山」の木材を使用し、焼けた旧校舎の校庭に残った桜を移植した、現在にまで残る新たな校舎が完成しました。

林業の隆盛と共に人口が増え、1945年(昭和20年)には児童数が310名、1960年(昭和35年)に遠山村と木沢村が合併し南信濃村となった「南信濃村立木沢小学校」には児童257名が通っていましたが、林業の衰退に合わせて人口が減少し児童数も1970年代後半には100人を切るようになりました。
1990年(平成2年)には児童数が26名となり、卒業生8名を送り出した1991年(平成3年)3月31日に118年の歴史を持って閉校となり、残りの児童は5kmほど離れた別の学校に移りました。
そして、2000年(平成12年)3月31日に学校発足127年、約2000人の卒業生を輩出した『木沢小学校』は廃校となりました。

廃校後は校舎を取り壊して企業誘致に活用する案も出ましたが、同じ年に「遠山森林鉄道」の発着点近くの旧貯木場に機関車が移されたことを機に、歴史の記憶を伝えて行こうという気運が高まったことで、2005年(平成17年)に校舎を残すことが決まりました。

現在の廃校となった『木沢小学校』は、卒業生が中心となって当時の面影を留めたまま後世に引き継がれるよう保全管理され、地域の人々の交流や企画展示、「一日体験入学」といったイベントやCM撮影に使われるなどと全国的に少なくなった歴史ある木造校舎は「遠山」にとって大切な観光資源の一つとなっています。
近年では、「たかね校長」の活躍する姿がSNS等で広まったこともあり、その姿を一目見ようと各地から多くの観光客が「旧木沢小学校」に訪れるようになりました。

そして、2011年(平成23年)からの取り組みで「遠山森林鉄道」が現代に復活を遂げようとしています。
廃線後に、放置されたり近隣住宅の屋根の重しに使われていたレールを回収し、軌道に敷く砂利や枕木を地元の企業から提供を受け、2016年(平成28年)から復元した機関車を全長約350mの周回コースを走らせるまでになりました。
また、2015年(平成27年)から年二回、ツーリングで訪れたライダーたちを校舎前に移動販売式のカフェを出店してもてなす「モトカフェ木沢小学校」を有志のライダーと地域が共に企画開催し、一回2日間で300人近くのライダーが「遠山」の地に訪れるほどになっています。

人に関わり、山に関わり、その隆盛と衰退を幾百年の間に幾度となく繰り返してきた「遠山」の地。
これまでの「遠山」を、現代に語り伝える新たな役割を担うことになった、かつての『木沢小学校』。
この地を訪れる人々が『木沢小学校』を通して「遠山」に関心を持つことで、この地に続く物語がまだ終わることはなく、猫の手を借りながらも「遠山」に生きる人々が次なる展開を語ってくれることでしょう。