「天下第一の桜」- タカトオコヒガンザクラ(高遠小彼岸桜)
小振りで強い淡紅色(ピンク)の花を咲かせ高遠の地のみに根付き群生するコヒガンザクラ。
高遠城址の桜は、明治6年(1873年)の廃城令によって取り壊された城跡の荒廃を嘆いた旧藩士たちが高遠藩の縁ある馬場(乗馬の練習場)の桜を植えたことが始まりとなり、今日では「天下第一の桜」と謳われる桜の名所となりました。
約1500本ものタカトオコヒガンザクラが植わる高遠城址公園は、満開の時期になると淡紅色で園内一面を埋め尽くし見る者を圧倒する美しい景観を生み出します。
戦国時代に高遠城のあったこの地は諏訪氏一門の高遠氏の居城であり、高遠頼継の代に甲斐の武田晴信(信玄)と諏訪氏滅亡後の領有を巡り対立しました。その対立に負けた高遠頼継は降伏し高遠の地は武田氏の手に渡り信濃支配における重要な拠点となりました。
その後、山本勘助などにより大規模な改修が行われ1562年には、晴信の庶子(正妻でない子)で諏訪氏の血を引く四郎勝頼、後の武田勝頼の一時の居城となりました。
1582年、織田信長の武田攻め(甲州征伐)の際に5万の大軍で高遠城は攻められ落城し、信濃防衛の拠点を失った武田氏は滅亡へと一気に進むことになります。
江戸時代には高遠藩となり、保科氏・鳥居氏と経て1691年より内藤氏の居城となり明治維新を迎えることになりました。
「浮き世にはまた帰らめや武蔵野の 月の光のかげもはづかし」
1714年、高遠の地に遠流(おんる)となった『絵島(江嶋)』は、江戸城大奥を震撼させた『絵島生島事件』の主人公です。
絵島生島事件は、大奥御年寄(大奥の万事を取り仕切る最高権力者)の絵島(33歳)が7代将軍家継の生母『月光院』の名代として奥女中を連れ前将軍『家宣』の墓参りに行くことになります。
その帰り『山村座』の芝居を見た後、歌舞伎役者『生島新五郎』を茶屋に招き宴会を催しました。
宴会に夢中になった絵島らは、大奥の門限(午後4時)に遅れることになりました。
このことが発端となり、大奥内の『月光院』と家宣の正室『天英院』との勢力争いの一大事件となります。
絵島は、生島との密通を疑われ死罪。生島は三宅島に流罪。監督責任を問われ絵島の異母兄は斬首。山村座は廃座。同行した女中は『お暇御用済解雇』となり関係者70名以上が処罰され、もともと商人との賄賂が横行するなど大奥の風紀が乱れており、それを正したい幕府にとって千載一遇の好機となりかなり厳しい沙汰が各々に下されました。
この事件により、『天英院』の勢力が優勢となって2年後の1716年に家継が8歳で亡くなると天英院の推していた紀州藩主『徳川吉宗』が8代将軍となり、家継および月光院の関係者はことごとく失脚させられました。
質素倹約を掲げた吉宗は幕府の年間財政の約25%を占めていた大奥に対し、50名の美女を『どこへ行っても良縁に恵まれる』という理由で解雇させました。
絵島は、月光院の嘆願により罪一等を減じられ高遠藩への遠流となりました。
囲み屋敷に入れられた絵島は、61歳までの28年余りを過ごし大奥での生活や事件を誰にも一切語ることなく高遠の地で亡くなりました。
はめ殺し格子戸に囲まれ昼夜の監視と朝夕の一汁一菜、酒や煙草の禁止、着物は冬でも木綿で火鉢のみ、筆記用具の使用も禁止で読経の毎日だったようです。
ただ吉宗の時代の頃には多少自由が与えられ囲み屋敷内の散歩や、藩内にある日蓮宗の蓮華寺への参拝、そして月に何度か高遠城内の女性たちへ躾指導をすることがありました。
当時の高遠藩主の内藤家は、絵島の取り扱いについてかなり気を使っており幕府に対しての事細かな伺書を送っています。大罪人とは言え、大奥の実力者だったため何かひとたび問題が発生したら藩の不祥事となりお家断絶に繋がりかねなかったのです。
大正15年(1926年)にこの地を訪れた歌人『斎藤茂吉』は、絵島を憐れみ歌を詠みました。
「あわれなる流されひとの手弱女(たおやめ)は 媼(おうな)となりてここに果てにし」
『天下第一の桜』が咲き誇る城址、在りし日の『高遠城』と麓に建つ絵島の『囲み屋敷』。
戦国の世から高遠の数奇な歴史と相まってタカトオコヒガンザクラは、永い年月を経て現代に通じた平安の象徴として美しい淡紅色の花を咲かせ、各地から訪れた人々を心ゆくまで楽しませてくれます。