「金毘羅船々 追風に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」

『金比羅山(こんぴらさん)』の通称を持つ標高524mの『琴平山(ことひらやま)』と、隣り合う象の頭に似ている標高538mの『象頭山(ぞうずさん)』とを合わせた総称『象頭山』の中腹に鎮座し『こんぴらさん』とも呼ばれ親しまれる『金刀比羅宮(ことひらぐう)』。

記紀神話(古事記・日本書紀)の神である『大物主神(おおものぬしのかみ)』が、中国・四国・九州の統治をする際に『琴平山』(象頭山)を拠点として行宮(あんぐう:仮の宮)を営まれた跡に、『琴平神社』あるいは『琴平社』が創建されました。

「思ひやれ 都はるかに沖つ波 立ちへだてたる 心細さを」(崇徳院)

平安時代末期の1156年に、皇位継承に関する『崇徳(すとく)上皇』と『後白河天皇』との対立などによって引き起きた『保元(ほうげん)の乱』により『崇徳上皇』は讃岐(香川)へ配流(はいる:島流し)されます。
1164年に『崇徳上皇』は帰京叶わず崩御(ほうぎょ)され、1165年に『崇徳上皇』の御霊(みたま)を『大物主神』と合わせ祀られ『金刀比羅大神(ことひらおおかみ) 』と称されることになります。

日本古来の『神祇(じんぎ)信仰』(神道)と日本の『仏教信仰』とを混淆(こんこう)し、一つの信仰体系とした『神仏習合(しんぶつしゅうごう)』(神仏混淆)の状態が奈良時代(710-784)に形成し始め、平安時代(794-1185頃)の後期には『仏菩薩(ぶつぼさつ:仏と菩薩)』が衆生(しゅじょう:心をもつすべての存在)を救済するため「真実の姿」(本地)を「神の姿」(垂迹)に変えて現れるという『本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)』の影響を受け、『金刀比羅大神』は仏教由来の神である『金毘羅大将(こんぴらだいしょう)』または『宮毘羅大将(くびらだいしょう)』と同一視され『金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)』と呼ばれるようになります。
『権現(ごんげん)』とは、『仏菩薩』が「権【かり】」に『神祇(神々)』となって「現れる」ことです。

「金刀比羅の宮はかしこし船ひとか 流し初穂をさゝくるもうへ」(吉井勇)

『琴平山』(象頭山)は、神が宿る山『神体山(しんたいさん)』としても人々からの崇敬を受けていました。
祭神の一柱『大物主神』は、雨や雷を呼ぶ『蛇神(龍神)』でもあり稲作豊穣・疫病除け・酒造り(醸造)などの神として信仰され、薬師十二神将の一将『金毘羅(宮毘羅)大将』の起源はサンスクリット語(梵語)でヒンドゥー教の神『クンビーラ(Kumbhīra)』だと言われ、ガンジス川に住む『鰐(わに)』が神格化した水神で、ガンジス川を神格化した『ガンガー(Gaṅgā)』の『ヴァーハナ(Vahana:神の乗り物)』であることから海難を避ける海上交通の守り神として信仰されていました。
また、『琴平山』(象頭山)の山の形は瀬戸内海を航海する船からの目印となりやすく、「板子一枚下は地獄」と言われる船乗りにとっては水神でもある『金毘羅大権現』が守護してくれると海に関わる人々を中心に信仰されていました。

『金毘羅信仰』に、『流し樽』(流し初穂)と呼ばれる航海の安全を祈願する儀式が江戸時代にはあり、海上で『琴平山』(象頭山)が見えてくると、『初穂(はつほ:賽銭)』を出し合い、樽に初穂料と祈祷文を入れて船名を加え「奉納金比羅大権現」と墨書きした幟(のぼり)を立てて海に流します。
そして、この樽を見つけた漁民が引き上げ『代参(だいさん:ある人に代わってお参りすること)』し奉納すると、流した船にも拾った船・人にも御利益(ごりやく)があり心願成就すると言われていました。

「塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきに非ず」

瀬戸内海の海域である『備讃瀬戸(びさんせと)』(吉備と讃岐の間の海:岡山と香川)には、大小合わせて28の島々から成る『塩飽諸島(しわくしょとう・しあくしょとう)』があります。

『塩飽諸島』は、海上交通の要衝で潮流が速く操船に長けた島民は、源平合戦の頃より瀬戸内海一帯で活躍し『塩飽水軍』と呼ばれる勢力がありました。
1590年には船方衆650人を『御用船方(ごようふなかた)』とし、塩飽七島1250石を与えられ共同で領有し、『織田信長』『豊臣秀吉』『徳川家康』と各時代の権力者から所領の安堵や保護を受けていました。

江戸時代には、出羽国(山形)の米を大坂へ運ぶ『西廻海運(にしまわりかいうん)』が確立され、経路となる瀬戸内海は、塩飽衆がその運航を一手に担うことになります。
塩飽衆が操る旅客や貨物を運んだ『廻船(かいせん)』には、『金毘羅大権現』の旗を掲げて諸国を巡ったことが海運業に関わる人々に『金毘羅信仰』を広めることになりました。

「おんひらひら 蝶も 金比羅参哉」(小林一茶)

江戸時代の中期頃、幕府の禁令により自由に旅をすることができなかったが神仏への参詣については許されており、全国の庶民の間で『金毘羅参り』が盛んになり『伊勢参り』とともに「一生に一度は」と言う通念が生み出されていきました。

「金毘羅は巡礼の数にあらずといへども、当州の壮観、名望の霊区なれば、遍礼の人、当山に往詣せずといふ事なし。故に今の載る所也。」(寂本 著「四国偏礼霊場記」より)

『金毘羅参り』の人々は、大坂から丸亀や多度津の港を結ぶ「讃州金毘羅船」と染め抜いた幟を立てた船に乗ったり、『金毘羅街道』(金毘羅往来)と呼ばれる石灯籠や丁石(ちょういし:一丁ごとの道しるべ)などが設置された各地からの参詣道を通って『金毘羅参り』の旅を楽しみました。

しかしながら、庶民にとって『金毘羅参り』の旅費は負担が大きかったので、『金比羅講(こんぴらこう)』と言う相互組織『講』を結成して講金(旅費)を積み立て、くじ引きで「代表」を選んで交代で参詣しました。

旅慣れた代わりの者が「代理」で参詣することもあり、『森の石松』が『清水次郎長』(山本長五郎)の代わりに刀を奉納したことや、藩主の代わりに家臣を参詣させるなどがありました。
時には飼い犬を『代参』させることもあり、飼い主を記した木札・初穂料・餌代などを「こんぴら参り」と記した袋に入れて首から下げさせ、『金毘羅参り』の道中を旅人や宿場の人々の世話を受けながら参詣し、『御神札(おふだ)』を飼い主の元へと持ち帰ったと言われています。
『代参』した犬は『こんぴら狗(いぬ)』と呼ばれました。

「当山ノ天狗ヲ金比羅坊ト名ヅク」(寺島良安 著「和漢三才図会」より)

江戸時代に、白または鼠色の行者装束に奉納するための巨大な天狗の面を背に付けた『金毘羅道者(どうしゃ)』(金毘羅行人)が、『金毘羅大権現』の眷属(けんぞく:従者)は『天狗(てんぐ)』とされていたため、全国を遍歴して庶民の『金毘羅参り』を「代行」するなどして『金毘羅信仰』を広めました。

「仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事」(太政官布告)

明治の世となった1868年、『王政復古の大号令』により天皇を中心とする統一国家を目指す『明治政府』は、祭祀と政治とを一元化した『祭政一致(さいせいいっち)』を実現させるために『神道』を国教とし、古来より広く浸透していた『神仏習合』(神仏混淆)を禁止するために『神仏判然令(しんぶつはんぜんれい)』(神仏分離令)を発し、神社と寺院を分離しそれぞれを独立させようとします。

「今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗ノ上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候」(太政官布告)

寺務を統括する僧職『別当(べっとう)』と神社に所属して仏事をおこなった僧『社僧(しゃそう)』は、僧籍を離れ俗人に戻る『還俗(げんぞく)』を強要され、神社に勤めるように命じられます。

これらの布告をきっかけに、仏を廃し釈迦の教えを壊(毀)す『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』が日本各地で起き、寺院の廃合や仏像・仏具の破壊・経巻の破棄、そして土地の接収・寺宝の収奪や売却などと仏教色が強引に排斥されます。
1871年には『上知令(じょうちれい)』が布告されて、境内を除く寺や神社の領地が国に没収されました。

『廃仏毀釈』は、寺請制度・檀家制度・本末制度によって仏教寺院が優遇されていたため、これに恨みを持った神社の神官、神道の復古を唱えた国学者が扇動したこと、寺院に反感を持っていた民衆も加わったことで大規模な排斥運動となりました。

「みあぐれば 心もきよき 象頭山 金の御幣に 神ぞまします 」

『金毘羅大権現』が祀られていた『象頭山松尾寺金光院』も『神仏判然令』(神仏分離令)によって廃寺に追い込まれ、1872年に本尊である『金毘羅大権現』とともに別の地に移され『松尾寺』と称し、神道の『琴平神社』は『金刀比羅宮』と改称することになり、主祭神を『大物主神』と定められ相殿(あいどの:合祀)に『崇徳天皇』を祀ることになりました。

1873年には『金毘羅村』を『琴平村』と改名することになり、また『金毘羅』と永く親しまれた名称はひらがなで表記する『こんぴら』として残ったと言われています。

「抑讃岐国象頭山金毘羅大権現と号し奉るは…」(十返舎一九 著「金毘羅参詣続膝栗毛」より)

昨夕から降り続けた雨が朝方には上がったが、どんよりとした雲の下の象頭山に鎮座する『金刀比羅宮』。
本宮までの石段は全785段。
実際には「上がる」石段は786段あり、652段上がった手水舎(ちょうずや)の手前で一段下がることで全785段となり、「786」で「な・や・む」と読める語呂を忌み嫌い、一段下げたと言われています。
手水舎から残りの134段を上がると御祭神『大物主神』と『崇徳天皇』が祀られる本宮へ到着します。
1878年に改築されていますが、古来より『金毘羅参り』で多くの人が訪れ積み重ねてきた歴史の空気感を、少し水気を含んで吹く風がより重く濃いものへと凝縮させてくれます。

さらに、本宮から『奥社(おくしゃ)』までの約1kmほどの参道には583段の石段が待っています。
『厳魂彦命(いずたまひこのみこと)』を祀る奥社『厳魂神社(いずたまじんじゃ)』への道は、本宮までの参道とは異なり静寂に包まれ、朝方までの雨によって上空の木々には霧がかかり神秘な情景を醸しています。

この地の永い歴史の営みを含んで循環する雨露が、石段から石畳、一木一草に至る大地までも深く濡らした、とても重厚な雰囲気をまとった参道を歩むことができました。