「かぐはしや 時雨すぎたる 歯朶の谷」(川端茅舎)

太平洋からの波による浸食で海食崖に形成された高さ約5m・幅は4mほどの広さで、全長は約40mの天然の「海蝕洞」である『伊尾木洞(いおきどう)』。

『伊尾木洞』の壁は、かつての土佐湾に生息した貝などを含んだ砂や泥からなる地層です。
安芸市穴内の地層『穴内層』は、主に砂岩・シルト岩(砂と粘土との中間の粒径をもつ堆積岩)から構成され、およそ310万年前から230万年前の間に堆積されたと考えられており、『伊尾木洞』の壁の地層と同年代であると推定されています。

『海蝕洞(かいしょくどう)』(海食洞)とは、波の浸食作用によってできた海岸の崖『海食崖(かいしょくがい)』の一部に断層や割れ目などの弱い部分が存在した場合に波が浸食してできた「窪み(波食窪:notch)」を、さらに波の水圧による打撃と「砂礫(されき:砂や小石)」によって削られ形成された、幅よりも奥行きが深い洞窟のことです。

「伊尾木洞ハ絶壁ニヨリテ圍マレタル一小谷ニシテ外界トハ溪流ニ沿ヒテ開カレタル隧道ニヨリテ通ズ絶壁面ニハほうびしだノ純群落ノ外、ほうらいしだ、はごろもしだ、えだうちほんぐうしだ、こもちしだ等ノ 暖地性羊歯密生シ盛ナル群落ヲ成ス」(天然紀念物調査報告「植物之部」第四輯 一〇八頁)

『伊尾木洞』から約400mにわたる渓谷は、年間の温度差が小さく冬でも暖かいことと川が流れることによる高い湿度、そして降り注ぐ適度な日の光と岩石の多い崖状の地形からなる最適な生育条件を満たしているため、40種類以上のシダ植物が限られた洞内で生息・繁殖している『伊尾木洞シダ群落』を形成しており、この特異なシダ群落は1926年10月20日に『国指定天然記念物』に指定されています。

絶えず水が滴り落ちる「隧道(すいどう:トンネル)」を抜けると仄暗い渓谷が開け、シダ植物「ホウビシダ」の群生が絶壁の壁面含めた辺り一面に広がっています。
天は木々に覆われ、時折わずかな隙間から照らされる日の光を浴びたシダの森は、まさに魔法によって生み出された幻想世界であり、静寂が支配し鬱蒼とした神秘な光景に魅入られてしまいます。

「晴れあがる 雨あし見えて 歯朶明り」(室生犀星)

渓谷を流れる浅い川を伝って上って行くと、「クリハラン」「マツザカシダ」「ノコギリシダ」「シロヤマゼンマイ」「ホウライシダ」など、特に珍しい種類ではないシダ植物たちですが、目の前に広がるすべての空間の何処かには、その姿を見ることができます。
日が射す角度が時間とともに変わり、『伊尾木洞シダ群落』が魅せる特別な世界は常に変化に富み永遠に見飽きることはないでしょう。

ただ、生息が確認されていた「コモチシダ」は、ここ数年は渓谷内でその姿を見た者がいないと聞きました。
この数十年の間に少しずつシダ群落を取り巻く環境や植生が変わってきているのだと意識させられます。

日本国内において希有な場所である『伊尾木洞』では、シダ群落とあわせ永い年月をかけて奇々怪々な自然を創り出した凄まじさと、生命のチカラを存分に感じられます。
幻となった『伊尾木洞シダ群落』の「コモチシダ」を見つけるために、時を変え再び『伊尾木洞』に足を踏み入れることになるでしょう。