「賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利」
三角縁神獣鏡は、鏡の縁の断面が三角形で、背面に神獣の文様が刻まれた銅鏡。
それが古墳時代の前期(3世紀後半から4世紀)につくられたと推定される黒塚古墳から国内最多の33面が出土し、その数の多さから邪馬台国の謎に近づく発見でした(1997年発掘調査)。
通常は多くても5面~10面程度のようです。
現在では、三角縁神獣鏡は日本製と考えられており(中国では三角縁は発見されていないため)魏志倭人伝に書かれた「卑弥呼に銅鏡百枚を授けた」とは異なるようで、邪馬台国の存在を裏付けるには至ってないようです。
しかし近年、中国で三角縁神獣鏡が発見されたりとその真偽も含めて新たな謎が、より古代の浪漫を深めてきています。
黒塚古墳は、完成間もないうちに地震で石室の天井が崩れて埋もれてしまったため、現代まで盗掘を免れ当時のままの配置で三角縁神獣鏡や刀剣などの宝飾品が見つかったのですが、埋葬者は木棺だったため一緒に朽ちて誰だったかは明確には分かっておらず、それを決定づける文献は見つかっていないそうです。
蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳もその真実を示す文献等がなく、この時代は謎だらけです。
黒塚古墳展示館(入館無料)には、黒塚古墳で発掘された実物大の石室が再現されており発見時の三角縁神獣鏡などの配置が分かるようになっていました。
2階の展示室には出土した33面の三角縁神獣鏡と1面の縁が平らで画文帯と呼ぶ文様帯をもつ画文帯神獣鏡の精巧なレプリカが展示されてます。
色合いは発見時の色だそうで、ヒビ割れた感じなども再現されており背面に描かれた霊獣・神仙などをじっくり見ることができます。やはり、レプリカでなく本物の遥かな歴史を経た質感をじかに見たいトコロです。
★天川村「天河大辨財天社(天河神社)」
広島県厳島・滋賀県竹生島・神奈川県江ノ島と並ぶ日本を代表する弁財天のひとつであり、主祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。
七福神の唯一の女性で芸能の神様「弁財天」として知られ音楽・芸術・芸能に関わる方にとって天河神社はパワースポットです。
奈良県の山深くにあり、“縁がなければ、たどり着けない場所”として言い伝えがあるほど交通が不便で、車でもたどり着くのは大変でした。
でも、山奥にぽつりと存在するわけではないので…あぁ、ここなんだと思うことでしょう。
木々に囲まれ、清らかな空気を気持よく感じながら石段をあがって拝殿へ。
能舞台が設けられたこの空間は、異世界に踏み込んだのかなと思わせてくれます。
鈴緒(すずのお)に結ばれた、天河神社に伝わる「五十鈴(いすず)」。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩屋戸に隠れた際、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、神代鈴をつけた矛(ちまきの矛)で舞を舞ったことで岩屋戸が開かれ天地が再び明るく照らされた伝承があり、その神代鈴が天河神社の五十鈴と伝えられています。
その鈴緒に結ばれた五十鈴が、どのような音色を奏でるのかは実際に訪れて耳を傾けてみてください。
★平城宮跡「第一次大極殿(だいごくでん)」
奈良時代(710 – 794)の、日本の都であった平城京(710 – 784)。
平城遷都1300年記念事業(2010)として2001年から9年かけて復原された「第一次大極殿」。
なぜ第一次なのかは、聖武天皇が740年から都を他所に移し替え745年に再び平城京を都にした経緯があり、その際に大極殿を新しく別の場所に建てました。
奈良時代前半の第一次大極殿は元明天皇、後半の第二次大極殿は聖武天皇になります。
大極殿は天王の即位や儀式、外国からの使者のもてなしに使われる重要な建物でした。
ただ、復原において設計図や参考文献・絵画などが残っていないため、その跡地に残る礎石から大きさを測定したり他の建築から推定したりと相当の苦労だったようです。
本来の姿はうかがい知ることができないですが、その当時にこのような建物があり都の人々が確かに存在し、現代とそれほど変わらないだろうこの夕日の赤さを誰かが眺めていたんだ…と、そう浪漫を感じさせてくれる情景でした。