「浪のおと 風のおとみな とほつ人の ききしもかくや竹島の浦」(柳原白蓮)

愛知県蒲郡市の海岸から約400mに位置し標高は約22~24mで周囲約620~680mの三河湾に浮かぶ小島『竹島(愛知県)』。

島のすべてが「八百富(やおとみ)神社」の境内になっており、日本七弁財天のひとつで、開運・安産・縁結びの「竹島弁財天(市杵島姫命)」をお祀りしてます。

島までは長さ387mの竹島橋が架かっており、1932年(昭和7年)までは船で行き来していたとのことで今では気軽に竹島橋を渡ってお参りができるようになっています。

関ヶ原の戦いの幕開けとなる上杉景勝(1555-1623)を討つ「会津征伐」(1600年)の際には、徳川家康(1542-1616)が船で立ち寄り参詣しています。

「岩間もる玉かげの井のすずしきに 千歳の秋を松風のふく」(藤原俊成)

「八百富神社」は1181年の創建と伝えられ、三河国司である「藤原俊成(1114-1204)」が未開だったこの地の開拓に当たった際に、琵琶湖(近淡海)の北部に浮かぶ「竹生島(ちくぶしま)」によく似て風光明媚なこの島に「竹生島弁才天」を勧請(かんじょう:神仏の分霊を他の地に移すこと)せられたことから始まり、雑木林におおわれ竹がなかった島に、「竹生島」の竹を2本根こそぎ持ってきて、ご神体として植えたことから『竹島』と名付けられたとも伝えられています。(「竹島縁起」[1736年])

「蒲郡の海! それは、瀬戸内海の海のやうに静かだ。低い山脈に囲まれ、その一角が僅かに断れて、伊勢湾に続いて居る。風が立つても、白い波頭が騒ぐ丈で、岸を打つ怒濤は寄せては来ない。海上には幾つもの小島がある。陸に近い竹島は、僅かに四五町、潮が干けば、徒渉ることが出来る。島に祀つてある辨財天の白い鳥居が、キラキラと日に輝くのが、手に取るやうに見ヱる。」(菊池寛「火華」[1922年])

晴天ながら海からの冷たい風が吹き付ける竹島橋を渡ると、キラキラと輝く鳥居が目の前に見えてきます。
竹島に足を踏み入れて出会う案内板を起点にそのまま本殿への階段を登ることも、島の周囲を廻る遊歩道に向かうこともできます。

境内には5つの神社があり、開運・安産・縁結びだけではなく商売繁盛、長寿や勉学などにも御利益が期待できます。
そして、「藤原俊成」が竹生島より運び入れた島の唯一の植林と言われる「元竹(もとだけ)」を目にすることで、島の名をその歴史と共に噛みしめることでしょう。

逆光で陰った遊歩道に向かい、岩場を巡る波音を聴きながらのんびりと歩くといつしか肌寒かった空気が、島の反対側に達する頃には日を浴びた空気に包まれ身体が温かくなってきます。身体の緊張が解け心までも温まった頃にちょっと腰を落とし、竹島から外界を眺めると刻の進みが緩やかになり遠くの景観(現世)が虚ろいで見えてきます。

竹島の社叢(しゃそう:神社の森)は主に暖帯林の照葉広葉樹であるクスノキ科の「タブノキ(椨)」に覆われ、65科238種のさまざまな高等植物の自生が確認されており、1930年には島そのものが国の天然記念物に指定されています。
対岸の景観とは異なる独自の世界を形成しており、この島は橋で繋がって自由に往来できる異世界なんだと感じてきます。

大正・昭和期の「菊池寛(1888-1948)」「志賀直哉(1883-1971)」「谷崎潤一郎(1886-1965)」「川端康成(1899-1972)」などの文人や、歌人「佐佐木信綱(1872-1963)」「柳原白蓮(1885-1967)」、映画監督「木下惠介(1912-1998)」などと言った歴史に名を残す人々を引き寄せたのが竹島があるこの地でした。

また今度この地を訪れる時には、舞台となった作品を通して新たに見えてくる世界で波と風の音を聴きながら身も心も更にずっぽりと浸りたいと思います。
さすれば「大大吉」のおみくじへと導かれるかもしれません。