「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」(本多重次)

標高17mの独立丘陵上に築かれた平山城である『丸岡城(まるおかじょう)』。

1573年の『織田信長』による『朝倉家』滅亡後の動乱の中、1574年に浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒が引き起こした『一向一揆』の拠点となってしまった702年に建立された天台宗の寺院『豊原寺(とよはらじ)』は、1575年に越前に侵攻した『織田信長』によって、僧坊(そうぼう:僧侶の住む建物)が建ち並び『豊原三千坊』と言われた『豊原寺』のすべてが焼き払われてしまいます。

『一向一揆』が制圧された後、『織田信長』から越前75万石を与えられた『柴田勝家(しばたかついえ)』は、甥の『柴田勝豊(かつとよ)』に4万石を与え、『柴田勝家』の居城『北ノ庄城(きたのしょうじょう)』の『支城(しじょう:本城を補助する城)』として豊原寺跡に山城『豊原寺城』を築城しました。

『豊原寺』は『柴田勝豊』の支援を受け、標高2702mの『御前峰(ごぜんがみね)』を主峰(しゅほう)とした周囲の山々の総称である霊峰『白山(はくさん)』を崇める『白山信仰』の拠点として再び復興を許されますが、1869年に『神仏分離令』の影響や寺院の焼失によって廃墟化し廃寺となってしまいます。

1576年に『柴田勝豊』は、谷間の『豊原寺城』を西に4km離れた段丘へ移築した『丸岡城』に居城を移しましたが、1582年に『織田信長』死後の継嗣(けいし:跡継ぎ)問題と領地再分配に関する『清洲会議(きよすかいぎ)』で、『柴田勝豊』は近江『長浜城』への転封(てんぽう:領地を替えること)となります。

1624年には、『本多成重(ほんだなりしげ)』が4万6300石で福井藩から独立し『丸岡城』を拠点とした『丸岡藩』の初代藩主となりますが、4代藩主『本多重益(しげます)』は酒色に溺れる暗愚だったため家臣内で藩政の実権を巡る争いが激化し、その責任を負い1695年に幕命(ばくめい:幕府の命令)により改易(かいえき:身分を剥奪し居城・屋敷の没収)となってしまいます。

代わって『有馬清純(ありまきよずみ)』が5万石で入封(にゅうほう:与えられた領地に入る事)し、有馬氏丸岡藩8代藩主『有馬道純(みちずみ)』の時に明治維新を迎え、1871年の廃藩置県に伴い『丸岡城』は廃城となり天守以外のすべての建物が解体されました。

「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」

1576年、『丸岡城』築城の際に天守台の石垣が何度も崩れてしまい工事が進まなくなってしまったため、築城の完成を祈るための生け贄として『人柱(ひとばしら)』を立てることになりました。
『人柱』に選ばれたのは、二人の子を抱え夫に先立たれたことで貧しい暮らしを送る、片方の目の光を失っていた『お静』でした。

『お静』は、一人の子を『士分(しぶん:武士の身分)』に取り立てることを条件に『人柱』に立つことを決意しました。
そうして『お静』は天守の中柱の下に埋められ、ほどなくして天守は無事に完成しました。

しかしながら、城主『柴田勝豊』が『長浜城』への転封となってしまい成長した『お静』の子は『士分』に取り立てられることが叶わなくなりました。
このことを「お静の霊」は怨み、隻眼(せきがん:片目)の大蛇となり城の井戸に棲みつき水を濁らせ、『人柱』として立った『丸岡城』の掘の藻を刈る4月頃に、何日もの大雨を降らせました。
人々は、この大雨を「お静の涙雨」と呼びました。

現存する12の天守の中で最古の天守と伝えられている『丸岡城』の天守へは、6mほどの自然石を積んだ『野面積み(のづらづみ)』された天守台に築かれた石段を登り中に入ります。
その石段の途中で『腰庇(こしびさし)』と言う雨漏り防止のために斜めにつけられた小さな板張りを見ることができ、これは石垣の補強技術がまだ未熟だった当時は、天守を天守台より一回り小さくつくることで安定させ、そのためにできる隙間を『腰庇』で覆うことで雨が天守台に漏れるのを防いでいます。

戦場の最前線となる『支城』なので華美な装飾が施されていない実用的な天守は、戦国真っ只中の殺伐とした時代の凄みを感じさせ、その天守台の奥深くには『人柱』と言った伝説もまたその存在に畏怖を与えてくれます。
400年以上前の戦国時代最高の遺産の一つとして間近に見られることに気分が高まります。