「山里は ねざめの床の さびしきに たへず音なふ 滝枕か那」(細川幽斎)

木曽八景の一つ『寝覚の夜雨』と称えられ、木曽川の激流によって「花崗岩(かこうがん)」が永い年月をかけて浸食されてできた自然地形であり「史跡名勝天然記念物」に指定された『寝覚の床(ねざめのとこ)』。

1968年に発電用の「重力式コンクリートダム」で高さ35.2mの「木曽ダム」が運用されたことで木曽川の水位が下がり、かつての『寝覚の床』より更に怪奇的となった姿を現すことになりました。
木曽川の水流で冷えた「花崗岩」が水平・垂直方向と箱状に割れる「方状節理(ほうじょうせつり)」や、浸食により出現した窪みに岩が入り水流で回転したことで削られできた丸い穴「甌穴(おうけつ)」(pot hole)が見られ、獅子岩・亀岩・床岩・屏風岩といった名を持つ奇石怪岩を眺めることができます。

「誠やこゝは天然の庭園にて松青く水清くいづこの工匠が削り成せる岩石は峨々として高く低く或は凹みて渦をなし或は逼りて滝をなす。いか様仙人の住処とも覚えてたふとし。」(正岡子規 著「かけはしの記」より)

観世流に伝わる室町時代後期の謡曲『寝覚』(古名:三帰)では、このような物語が語られています。

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『寝覚の床』には『三帰の翁(みかえりのおきな)』と呼ばれる老人が住んでおり「長寿の仙薬」を授けていると言う噂が立ち、その話を聞いた第60代「醍醐(だいご)天皇」が勅使を遣わしました。
「長寿の仙薬」を飲んだことで三度若返り千年生きた『三帰の翁』に出会った勅使は、仙薬をもらう際に能楽の舞を見ることになりました。
夜が更け二人の天女が舞い始めると『三帰の翁』が現れ、自分は「医王仏(薬師如来の化身)」で世に無病息災を施すために『三帰の翁』として出現したと伝え、天女とともに舞います。
すると、川波が激しく立ち水中から二匹の龍神が姿を現して『三帰の翁』に「長寿の仙薬」を渡し、更に『三帰の翁』は天女と二匹の龍神ととも能を舞います。
夜が明ける頃になると勅使に「長寿の仙薬」を手渡し、『三帰の翁』は天女と二匹の龍神とともに明け方の空に飛び去りました。
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「浦嶋のよはいをのべよ のりの師は ここに寝覚の床うつして」(綾小路有長)

『寝覚の床』には『浦島太郎』の伝説が伝わっており、1685年に「井原西鶴(いはらさいかく)」が著した浮世草子『西鶴諸国咄(しょこくばなし)』には、「信濃の寝覚の床に浦嶋が火打筥(ひうちはこ)あり」と記されています。
また、「寝覚山臨川寺(りんせんじ)」には『浦島太郎』の後日譚が、1756年に著された『寝覚浦嶋太郎略縁記(りゃくえんぎ)』(寝覚浦嶋寺略縁起)によって語り伝えられています。

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亀を助けた『浦島太郎』は、天女に誘われ龍宮城に向かい数日間の持てなしを受けた後に、帰郷の際に龍王から「弁財天像」と「万宝神書」、絶対に開けてはいけない「玉筐(たまのはこ)」(玉手箱)をもらいました。
故郷に帰ると、父母が亡くなり300年経っていることを知り『浦島太郎』は深く悲しみます。
『浦島太郎』は「万宝神書」を読み飛行の術や長寿の薬法を会得して諸国を遍歴しました。
木曽の地を大変気に入って住みつくようになり、釣りを楽しんでいました。
しばらくすると里人とも仲良くなり龍宮の話をしていると、話の流れから「玉筐」を見せることになり、つい「玉筐」を開けてしまいました。
すると、たちまち300歳になろうかという老人に『浦島太郎』は姿を変えてしまいます。
『浦島太郎』は、里人に霊薬を売っていたので「見かへりの翁」と呼ばれてましたが、天慶元年(938)の春に何処ともなく立ち去ってしまいます。
里人は、後に残された「弁財天像」を祠に祀り、寺を建て「臨川寺」と号しました。
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白髪の翁となった『浦島太郎』は「今までのことは夢であったか」と目が覚めたことから、この里を『寝覚』、床を敷いたような岩だったことから、この地を『寝覚の床』と呼ぶようになったと伝えられています。

「旅なれば 泊りもはてず 行くもをし 寝覚の床を 見帰りの里」(沢庵宗彭)

大徳寺住職『沢庵宗彭(たくあんそうほう』は、僧への紫衣(しえ:紫色の法衣)着用の勅許を江戸幕府が無効にしたことに抗議し処罰された1627年の『紫衣事件』によって1629年に出羽国上山(山形県南東部)に流罪となります。
1632年に江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」の死による「恩赦(おんしゃ:刑の軽減など)」で許され、江戸に滞在し上洛の際に中山道を経た旅の記録として1634年に『木曾路紀行』を著します。

「福島宿」から「上松宿」に昼頃に着いた『沢庵宗彭』は、里人に案内されて『寝覚の床』を訪れ、その様子を「…水又木々をやそむ、浦嶋がつり石など云かすかさねあけたるたゝみ石、獅子岩船石なと様々の石の名はをしへける。在家をば見かへの里といふ心、奇石怪岩、山光水色の間ありて、詩にも歌にももとつく心はさらになし。」と書き記しています。
このように、「浦島太郎の伝説」が里人によって『沢庵宗彭』に伝えられたことが示されています。

「岩の松 ひびきは波に たちかはり 旅の寝覚の 床ぞさびしき」(貝原益軒)

1685年に儒学者・本草学者『貝原益軒(かいばらえきけん)』が著した『木曾路之記』(岐蘇路記)に、「上松宿」から「須原宿」に向かう途中に「臨川寺」から『寝覚の床』を眺めた様子を「茶屋よりわき二町程西へ行て、臨川寺といふ禅寺あり。其うしろに浦嶋がつりせし寝覚の床あり。」と記しており、『浦島太郎』が釣りをしたことが語り継がれています。
『貝原益軒』は、「浦島が事、日本紀・雄略帝紀、並びに扶桑略記に見えたり。此地にいたりし事は見えず。」とも記しており『浦島太郎』が『寝覚の床』で釣りをした事に対して「信じがたし」と述べています。

木曽路を行き交った人々、「参勤交代」で中山道を利用した西国の大名たちもみな『寝覚の床』の奇観に驚き、里人が語る「浦島太郎の伝説」に耳を傾け、この古の語り草に様々な想いを巡らせ、現代へと継がれています。

「寺に到りて案内を乞へば小僧絶壁のきりきはに立ち遙かの下を指してこゝは浦嶋太郎が竜宮より帰りて後に釣を垂れし跡なり。川のたゞ中に松の生ひたる大岩を寝覚の床岩、其上の祠を浦嶋堂とは申すなり。」(正岡子規 著「かけはしの記」より)

現在の『寝覚の床』は、『浦島太郎』がのんびりと釣り糸を垂らしていた頃よりも奇石怪岩がより目立つ姿となり、水位が下がったことで『浦島太郎』が玉手箱を開けた場所に建てられた祠「浦島堂」までは石から岩へと伝い、そして岩を登ることで辿り着けます。
そこから望める景色は、龍宮と雰囲気が似ていたため住みつくようになったとも伝えられる『浦島太郎』の気持ちが分かるような気がしてきます。
奇石怪岩に囲まれ、吹き抜ける微かに枯れた薫りを持つ風、白く柔らかそうな岩肌、飛び込めば宇宙の深淵に達せるような川面に釣り糸を垂らせば、龍宮へと誘われ、幾千の刻が気付かぬ間に流れてしまうかもしれません。