
「淡海の海 沖つ島山 奥まけて わが思ふ妹が 言の繁けく」(柿本人麻呂)
滋賀県近江八幡市、日本最大の湖である琵琶湖の中央部東岸寄りに位置し、日本で唯一の淡水湖の有人島である『沖島(おきしま)』。
琵琶湖には竹生島と多景島と沖の白石、そして沖島の4つの島があります。
沖島(沖ノ島)は岸から約1.5km離れ、頭山と尾山の2つの山を持つ周囲約6.8kmの琵琶湖最大の島で、島の面積約1.51平方kmのうち0.1平方kmにも満たない狭小な平地に約120世帯の230余名が主に漁業を生業として生活する有人島です。
「おいつ島 しまもる神や いさむらん 浪もさわがぬ わらわべの浦」(紫式部)
沖島に人が住み着くようになったのは、平氏が台頭することとなった保元・平治の乱(1156年と1159年)で敗走した源氏の武将7人が沖島に漂着して落ち延び、山裾を切り開き漁業を生業として住み着いたことが始まりと言われています。
源氏の武将の7人は島の祖先として、沖島に住むほとんどの人にそれぞれの姓が現代まで継がれています。
それ以前の無人の沖島に、645年(大化元年)に蘇我氏を打倒した藤原鎌足(614-669)の子である藤原不比等(659-720)が、712年(和銅5年)に奥津嶋神社(瀛津嶋神社)を建立し、多岐理比賣命(たごりひめのみこと, 奥津島比売命)を祀る神の島として湖上の航行の安全を祈願しました。
藤原不比等の孫の恵美押勝(706-764, 藤原仲麻呂)が、孝謙上皇(718-770)への反逆の罪で追われた際には沖島に一時住んでいたと言われています。
沖島近辺の湖底から、藤原不比等の施策として708年(和銅元年)に鋳造・発行された和同開珎や恵美押勝が760年(天平宝字4年)に鋳造・発行した萬年通寳などの銭貨、縄文土器や土師器(はじき)などが採集されたことからも、古くから沖島付近には人の往来があったと考えられています。
南北朝時代に南朝方によって島の南東部の頭山一帯に城が築かれ、室町時代には足利義政(1435-1490)によって北東部の尾山中腹の湯谷ヶ谷に見張番所が設置され、湖上航通の監視を島民に命じました。
沖島の人々は琵琶湖での水運にも従事していたこともあり卓越した船の操舵技術を有していたため、戦国の時代には織田信長(1534-1582)の浅井長政(1545-1573)への小谷城攻めの際に船を差し出し、1573年(天正元年)の小谷城への総攻撃にも活躍したことによって、琵琶湖での専用漁場の特権を与えられました。
1592年(文禄元年)の豊臣秀吉(1536-1598)の朝鮮出兵の際には従軍し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いには東軍について徳川家康(1542-1616)による石田三成(1560-1600)への佐和山城攻めの際にも活躍したこともあり、江戸時代以降も琵琶湖での専用漁場の特権が1949年(昭和24年)の漁業法改正まで認められ続けてきました。

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「風わたる にほの湖 空晴れて 月影清し 沖の島山」(続千載和歌集)
沖島へは、対岸の堀切港から定期船(通船)に乗って約10分で行くことができます。
沖島に向かうと、やがて船上から標高225mの尾山(宝来ヶ嶽)の山岸と湖岸の境に立つ赤い鳥居が見えてきます。
次に標高141mの頭山の方へ船が進むと、琵琶湖に面して家が建ち並ぶ集落が現れ、たくさんの漁船が停泊する沖島漁港へと入っていきます。
冬の北西の季節風を避けるため、沖島の集落の中心地と港は尾山と頭山をつないだ風陰の山麓のわずかな平坦な地にあります。
天気の良い朝早くの定期船に乗ったこともあり、漁港では何台もの自転車が行き来し、漁港を見渡せるベンチには沖島に住む年配の方々と白い長靴を履いた方とが笑顔で話し合う声が聞こえ、ヘルメットをかぶった工事関係者もミニショベルの周囲に集まり工事前の準備で忙しくし、漁港近くの工場では小学校に通う児童の社会見学が行われていました。
沖島漁港から、島の東側の琵琶湖に面した道幅1mほどの狭い湖岸道路を尾山方面に歩くと、広い芝生の校庭と1995年(平成7年)に移設し新しく建てられた十数名の児童が島の内外から通う木造校舎の沖島小学校が見えてきます。
先に進むと沖島の児童が琵琶湖で遠泳授業を行う杉谷浜があり、この砂浜からはここまでの道のりと山の麓の家並み、そして遠くには沖島漁港が目に入ります。
さらに先に進んで周囲に木々が茂る道を抜けると、船上から見えていた弁財天(厳島神社)の赤い大鳥居にたどり着きます。
弁財天は船の往来を守り、また雨乞いの願いを叶える社として江戸時代に建立され、1876年(明治9年)に実際に雨乞いを行ったと記録されています。
鳥居から長い石段を登った先には、扉が閉ざされた弁財天像が祀られている社殿が現れます。
そこから見渡す眼下の大鳥居と琵琶湖、対岸の山々と堀切港、そしてドドドと湖面を走る漁船、その景色にしばらく見入ってしまいます。

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沖島漁港から赤い大鳥居まではおよそ1.6km、のんびり歩いても30分ほどです。
弁財天からの景色をしばらく楽しみ沖島漁港へ戻る途中で、上の方から何度も「ヤッホー」の元気な声が聞こえてきました。
朝方に見かけた工場見学をしていた児童たちが、今は尾山の山頂付近にいるようです。
琵琶湖の波打つ湖面を望める湖岸道路沿いのカフェをのぞいて見ると、漬物づくりのワークショップの真っ最中で何やら楽しそうな雰囲気でした。
遺伝子に刻まれていた古代の漬物づくりが天の声により呼び覚まされたことで、天日塩と糠を用いてつくる日本古来の漬物を通して人間と自然の調和を伝えているとのことで、不思議な感覚ですが納得感がありとても興味深かったです。
桑の実ジュースを手にしてカフェの外にある木製ベンチに座って琵琶湖を見ていると、すぐそばに沖島のあちこちで見かけてずっと気になっていた大人用の三輪車が止まっていました。
通りかかった島の方に、沖島に住む人にとっては最高の移動手段であり生活の必需品で、雨・日・夜露よけとして缶(ガンガン)など個性豊かに各々の三輪車のサドルに被せて使っていると教えていただきました。

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沖島漁港から集落を抜けて島の反対側(西側)のおよそ800m先の採石場の跡へ向かいます。
琵琶湖からの透き通った波が静かに打ち寄せる石の浜を目にしながら歩いていると、山の裾に広がる「千円畑」と呼ばれる島民の各家庭が約3m四方の区画を所有している畑が集まっており、畑作業をしている島民の方々の姿をちらほらと目にします。
沖島では古来より漁業を主な産業としていましたが、江戸時代には山林を切り開いてわずかな田を耕し、南側の斜面に大豆を育て沖島大豆として大津の市場では評判だったと言われています。
また、島は石垣に適した石英斑岩で成っていることもあり、切り出された石材は湖上輸送で各地へと搬出されていきました。
1734年(享保19年)頃には島の景観が変わるほど採石されていたと伝わっていますが、採石の際に発生した石の屑で代々何年もかけて湖岸を埋めて土を盛ることによって、島の陸地を広げていったと言われています。
1887年(明治20年)以降、護岸工事やトンネル・湖岸の鉄道工事などで石材需要が急激に増大したことで、人口が増加し漁業とわずかな農業だけではまかなえなくなっていた島民の生活は豊かになっていきました。
昭和の時代に入ってからはコンクリート(混凝土)の使用が日本各地で広がり、島外ではトラック輸送が主流となったことで輸送費のかかる湖上輸送の沖島の石材はその需要を急速に減少させることになり、採石場の老朽化もあって沖島の石材産業は1970年(昭和45年)に終焉を迎えました。
その後、採石場の跡は学校の建設地になる予定でしたが、立地が悪いため計画が頓挫してしまったことで、島内の家庭が約3m四方の一区画を千円で購入し、跡地を島民で共有したことから千円畑と呼ばれ、各家庭の自給自足の野菜や花を育てています。
畑にまく水は目の前の琵琶湖の水をバケツで汲んで使用しているとのことですが、つい海だと錯覚してしまい、ここは淡水の琵琶湖に囲まれた島なのだと認識しなおします。
畑で収穫した野菜の土を琵琶湖で洗い落としている場面も、島では日常の姿と言います。

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昼時の沖島漁港に戻ると、この日に観光などで沖島に訪れていた人たちが漁業会館の周辺に集まっていました。
漁業会館内には長机が並ぶ休憩スペースがあり、事前予約で琵琶湖の旬の魚を使ったお弁当やどんぶりを食べることができ、予約なしでもうどんやえび豆コロッケ、コーヒーなどが注文できます。
また、沖島の家庭に受け継がれた製法で作った名産の鮎山椒若煮やえび豆若煮などをお土産に購入できます。
それらの中でも目を引くのは「沖島よそものコロッケ(6個入り)」です。
琵琶湖の外来魚であるオオクチバス(ブラックバス)のミンチに、おからやハーブ・白ワインなどを加えたコロッケで、オオクチバス特有の泥臭みを感じることなく食べられる最優秀な一品で、沖島小学校の児童が描いたパッケージも秀逸です。
琵琶湖には、ふなずしに使われるニゴロブナやビワマスなどの16種の固有種とアユなどを含めた魚類45種ほど、セタシジミなどの貝類が40種ほど、スジエビや水草のクロモ、プランクトンのビワクンショウモといった1,000種類を超える動植物が40万年以上の時をかけて琵琶湖で育ってきました。
もともと琵琶湖にいなかったオオクチバスやブルーギルなどの外来魚が増えてきたのは1970年代で、人間の不注意な行動が起因となって増えていき、在来魚の稚魚を捕食したり住処を奪うことなどで琵琶湖の生態系が大きく変化していきました。
外来魚だけでなく、短期間で湖面を覆って繁殖するオオバナミズキンバイといった外来水生植物も大きな問題になっています。
琵琶湖での漁業を生業とする沖島では、外来魚による生態の変化を食い止めるために年間数十トンが捕獲されており、捕獲した外来魚は県が回収し加工施設で魚粉にした後に、堆肥化や養鶏飼料の原料として活用されています。
そして、栄養価の高い外来魚を食用としても利用することで、島の活性化につなげようとしています。
1955年(昭和30年)には151戸・805人が沖島に住んでいましたが、現在では人口が200名近くまで減少しており、島民の高齢化も進んでいるため、琵琶湖で漁業ができる漁師も不足しています。
そのため、若手の見習い漁師を募集して育成する取り組みや、島外へ出てしまったことによる空き家活用、島への移住を促す生活体験やふなずし作り体験などといった、この先も人口200人以上を維持する取り組みを県や市と一丸となって行っています。

沖島に生まれて90余年の島民の方に、島の良さを教えていただきました。
これまでに島の外で暮らしたことはないけれど、ここほど景色が良くて気持ちの良い所はないと語ってくれました。
小さな島だけれども、小さな畑で野菜を育ててその日に食べる分だけ収穫する、湖に魚がおり、山はあり、春には桜が咲き、誰もが顔なじみ、そして天気の良い日には静かな波音だけが聞こえる琵琶湖がいつでも広がっていると言います。
琵琶湖で土を落とした野菜を三輪車の後ろのカゴに収め、「また来なさい」と言い置いて力強くペダルを踏んでさっそうと湖岸道路を進んでいく背中を見送りました。
沖島の景色を描きに来た人、漬物づくりに来た人、観光に来た人、写真を撮りに来た人。
この半日で、島外の人も島内の人にもたくさん出会い、いろいろな話ができました。
小さい島だからこそ何度も顔を合わせるので、ごく自然に挨拶を交わして島についての会話が始まります。
島に来たときには気づかなかった防浪堤に掲げられた「もんてきて沖島!」のフレーズ。
ああ、今度は桜が満開になる季節に来よう。
また沖島を訪れたいなと、船上からだんだんと小さくなっていく琵琶湖に浮かぶ沖島を眺めながら思います。
















