「銀杏はまた鴨脚樹とも書く。或る地方では、子供たちが、銀杏の葉を鴨に見立てて、それを川に泳がして遊ぶ。それは流れる水の上では長くは浮かない。各自は自分の鴨を川に放って、長く泳いだのが勝ちとなる。」(豊島与志雄「非情の愛」より)

愛知県稲沢市の北西部、国内屈指の銀杏(ギンナン)の生産量を誇り、晩秋には一万本を超える銀杏(イチョウ)によって町が黄金色に染まる『祖父江町(そぶえちょう)』。

祖父江町は、木曽川の沖積平野である肥沃な尾張平野の平坦な地にあり、冬季になると標高1,377mの伊吹山から伊吹おろし(伊吹颪)と呼ばれる北西の季節風が町に向かって吹き下ろします。
伊吹おろしによる強い寒風から屋根を守る防風や、木が燃えにくいことから防火を目的として、江戸時代には神社仏閣や屋敷の周りにイチョウが植えられ、イチョウが落とすギンナンは米が凶作の際の備蓄食料として使われていたと言われています。

1912年以降の大正時代になると、地域独特の粒の大きいギンナンが実ったことで商品化され、市場において高値で取引されたことから栽培が盛んになっていきました。
現在では一万本を超えるイチョウが祖父江町に植えられており、大粒として好評な祖父江のギンナンは日本で生産されるギンナンの24%ほどを占める国内屈指の生産量を誇っています。

「北人見鴨脚 南人見胡桃 識内不識外 疑若橡栗韜 鴨脚類綠李 其名因葉高 吾郷宣城郡 每以此爲勞 種樹三十年 結子防山猱 剝核手無膚 持置官省曹 今喜生都下 薦酒壓葡萄 …」(梅堯臣「永叔内翰遺李太博家新生鴨脚」より)

誰もが知るイチョウは、イチョウ科イチョウ属に分類される一科一属の近縁種が存在しない一種のみで、中国を起源とする雌雄異株で裸子植物の落葉樹です。
イチョウは約2億年前の中生代のジュラ紀から白亜紀にかけて最も繁栄し十数種の近縁種が存在していたことが、これまでに発掘された化石によって分かっています。
しかしながら、隕石の衝突によって約6,600万年前に新生代の氷河時代が始まると、寒冷化などによる恐竜の絶滅とともにイチョウもほとんどの種が絶滅していき、約1万年前に最終氷期が終わる頃には比較的温暖だった地域(現在の中国東部)に一種が生き残ったのみで、その一種が世界各地に広がり現代において目にするイチョウの原種となったと言います。
原種から継がれる中国安徽省と浙江省の一部に自生しているイチョウは、IUCN(国際自然保護連合)によって1998年に絶滅危惧種に指定されています。

「白果 鴨腳子 時珍曰:原生江南 葉似鴨掌 因名鴨腳 宋初始入貢 改呼銀杏 因其形似小杏而核色白也 今名白果」(李時珍「本草綱目」より)

イチョウは、中国の宋(960-1279)の時代には葉の形が鴨(かも)の掌(水かき)に似ていたことから「鴨脚」(鴨脚樹)と呼ばれていたことが梅堯臣(1002-1060)が書いた詩から分かっています。
鴨脚の実は「鴨脚子」と呼ばれており、宋の時代の初めに貢ぎ物を献上する際に杏(あんず)の形に似ており、その実の核が銀白であることから呼び名を鴨脚子から「銀杏」に改められ、明(1368-1644)の時代には鴨脚子は「白果」の名になっていることが、李時珍(1518-1593)が1596年頃に発行した「本草綱目(běn cǎo gāng mù)」に記されています。
イチョウが中国で発見されたのは900年代と言われており、宋の時代にはイチョウは鴨脚として一般に知られ、その実の核が酒の肴として食べられていたと考えられています。
しだいに鴨脚が銀杏の名で広まるようになると、鴨脚は鴨脚子と合わせて銀杏と呼ばれるようになっていき、明の時代には鴨脚子は白果と呼ばれて銀杏と区別されるようになっていったと言います。
宋の時代のイチョウの別称として、鴨脚を植えてもその実がつくには長い年月が必要となり孫の代になってしまうことから「公孫樹」(公=祖父)とも呼ばれていました。

「銀杏 異名鴨脚 葉形如鴨脚故」(下学集)

平安時代の歌集で約4,500首の歌が収められている「萬葉集」には、イチョウを詠んだと思われる歌が見られません。
イチョウが日本に入ってきたのは、1185年以降の鎌倉時代に禅宗の僧侶が宋から持ち込んで植えたと伝えられていますが裏付けるような文献がなく、実際には鎌倉中期まで行われていた日宋貿易を経て、1336年以降の室町時代にイチョウが日本国内で広がっていったのではないかと考えられています。
1444年(文安元年)に成立した「下学集(かがくしゅう)」には銀杏(イチヤウ)、そして異名に鴨脚と記されており、室町時代中期に成立した「尺素往来(せきそおうらい)」にも銀杏(イチヤウ)といったように、室町時代以降には銀杏の名が記された書物が見られるようになります。

日本で銀杏のことをイチョウと呼ぶようになったのは、宋の時代と音が変わっていないのであれば鴨脚(yā jiǎo)を「ヤーチャオ」と聞いた日本人が「イーチャオ」と訛り、「イーチャウ」「イチャウ」そして「イチョウ」へと音が変化(転訛)していったからではないかと考えられていますが、諸説があるためはっきりと分かっていないと言います。

「銀杏ハ一葉也」(貝原益軒「日本釋名」より)

貝原益軒(1630-1714)が1700年(元禄13年)に編纂した「日本釋名(にほんしゃくみょう)」には、一葉(イチヨフ)がイチョウの語源であるとしていますが、これは音に対して字を当てたのではないかと考えられています。
また、松永貞徳(1571-1653)が1662年に発行した「和句解(わくげ)」には、葉の形が蝶に似ているから「イ子タル蝶」(寝ねたる蝶)で「イテウ」、それが訛ってイチヤウだと記しています。

「銀杏 イチヤウ 木ノ名 ギンナン 實ノ名卽銀杏ノ唐音ナリ」(本草綱目啓蒙)

イチョウの実である銀杏をギンナンと呼ぶのは、唐(618-907)の時代からの銀杏の音である唐音(宋音)で「ギンアン」だったのが音便(おんびん:発音しやすいように音が変化すること)により「ギンナン」になったと、1803年(享和3年)に発行された「本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)」に記されています。

銀杏の字に対して音は鴨脚の唐音からイチョウ、その実は銀杏の字に銀杏の唐音からギンナンとなっていき、イチョウもギンナンも区別なく銀杏の字を当てられ音で使い分けていたようです。
イチョウの音の元となった鴨脚の読みは「アフキヤク」となっています。

「杏銀 Ginkgo, vel Gin an, volgo Itsjo. Arbor nucifera folio Adiantino.」(Kämpfer「Amoenitates Exoticae」)

イチョウの学名である「Ginkgo biloba」は、1690年(元禄3年)から長崎の出島に滞在していたドイツ人医師のケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651-1716)が1692年(元禄5年)に日本を離れる際に持ち帰った押し葉標本を元に1712年に「Amoenitates Exoticae(廻国奇観)」を発行し、この本を参考にした植物分類学を確立したリンネ(Carl von Linné, 1707-1778)は、1771年にイチョウの学名を二名法で「Ginkgo biloba」と命名しました。
二名法は学名を属名と種小名を並べて表記し、属名のGinkgoは‘銀杏’を、種小名のbilobaは‘2つの裂片’を意味するラテン語の造語で、イチョウの葉の特徴を表しています。
ケンペルが日本滞在時に動植物の研究のために参照していた中村惕斎(1629-1702)が1666年(寛文6年)に発行した「訓蒙図彙(きんもうずい)」には、銀杏(ぎんきやう)と記されていることから本来は「ぎんきょう」として「Amoenitates Exoticae」にはドイツ語でGinkjoもしくはGinkyoと綴られるはずでしたが、誤ってGinkgoと綴られて出版されたことによってイチョウの学名がGinkgoとなったと言います。

東洋への強い関心を持っていたゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749-1832)は、1815年に東洋から来たイチョウの神秘性に絡めて秘めた恋心を詠った「Ginkgo biloba」(Gingo biloba)の詩に2枚のイチョウの葉を添えた手紙を人妻のマリアンネ(Marianne von Willemer, 1784-1860)に友情の証として送っています。

「銀杏 一名鴨腳子 倭名イチヨウ 一葉ノ意ナルヘシ 大木アリ 小樹ニ實ノラス 其葉無岐ハ雌ナリ 有岐ハ雄ナリ 其實三稜アルハ雄ナリ 雄ハ植レモ實ナラス 試ルニ然リ 二稜ハ雌ナリ 植ヘシ多食スレハ氣ヲ塞キ 腹脹性アシヽ 小兒ニ食セシムヘカラス 飢人飯ニ代ヘ食スレハ死ス 慎ムヘシ」(貝原益軒「大和本草」より)

イチョウは雌雄異株のため雌株と雄株があり、雌株だけにギンナンが実ります。
イチョウの雌雄の判別方法が、1708年(宝永5年)に発行された貝原益軒の「山和本草(やまとほんぞう)」に記されています。
鴨の脚に似たイチョウの葉の先に切れ目がないのが雌で、切れ目があるのが雄となり、ギンナンの形が二面(二稜)なのが雌で、三面(三稜)なのが雄になると伝えています。
しかしながら、現代においてその判別方法には科学的な根拠がないと考えられています。
染色体数は雌株も雄株も2n=24(12対24本)であり、付随体を持つ染色体の数に雌雄の違いが見られるようですが、明確に雌雄を区別できるような判別方法は現在のところ分かっていないと言います。
時として、雄だったイチョウが翌年に雌化してギンナンの実をつけるといった性転換が突如起こることがありますが、その分子機構は解明されていません。
また、イチョウの葉の切れ目の有無やギンナンの形状の違いは個体差や生育する環境などによるものであると考えられており、決して雌雄を判別できるものではなく、結実前のイチョウの雌雄の判別はそれぞれの生殖器官を観察するほかはないと言います。

ギンナンをたくさん食べたことによって体内のビタミンB6の働きが阻害され、呼吸困難やめまい・嘔吐・下痢などの中毒症状を引き起こして重症化する場合があり、特に5歳未満の小児は中毒症状が出やすいため死亡例が多いと言います。
戦後の食糧難ではギンナンによる中毒者数が多かったと言われており、江戸時代に幾度となく襲った飢饉(ききん)ではギンナンによる中毒で命を落とした人が多かったことが「大和本草」の銀杏の記述から伺えます。

「繁つた、銀杏の大樹はまるで緑のトンネル。枝々が両側からかぶりあつて、馥郁とした涼風をただよはせてゐる。」(林芙美子「愛する人達」より)

10月末のある日、祖父江町にある山崎駅を中心にして緑色のイチョウの葉で辺りが覆われています。
オレンジに色づいたイチョウの実が、あちこちのイチョウの木にみっしりと実っており、祖父江町には久寿・藤九郎・金兵衛・栄神・喜平などの遺伝的な改良がなされたイチョウのさまざまな品種が植わっているようです。
特に見かけられるのは藤九郎の品種で、成長が早く6〜8年ほどで大きく丸い実をつけ始め、殻が薄くて食べやすいと言います。
山崎駅の近くにある1553年(天文22年)に創建された祐専寺(ゆうせんじ)の境内には、品種の原木となった樹齢250年から300年と推定される高さ約20mの雌のイチョウの大樹があり、大樹の根元から空を見上げると扇形の緑色の葉が幾層にも重なって青い空を隠しています。

実際には、被子植物とは違って裸子植物のイチョウには実はできないので、オレンジに色づいている物体はイチョウの種子そのもので、種子の外側にある外層が果肉のように肥大している状態です。
外層の中には、ギンナンと呼ぶ銀白の堅い殻の中層と薄膜の内層に包まれた胚乳があり、その淡い緑色の胚乳が秋の味覚として食べられています。

春になるとイチョウは花弁のない花を咲かせ、風に吹かれた雄花から小さな花粉が飛んでいきます。
雌花の胚珠の先端から出ている珠孔液(受粉滴)にたどり着いた花粉は花粉孔から花粉室へと運ばれて数カ月とどまり、雌花が大きく緑色に肥大した秋の頃になると、花粉室内で花粉から成長した袋状の花粉管の中に2個の精子が形成されます。
そのうちの1個の精子が花粉管から出て、花粉室と造卵器までの空間を満たしている液体の中を精子は繊毛のある側を前にして泳ぎ進み、造卵器内の成熟した卵と受精します。

1896年(明治29年)に平瀬作五郎(1856-1925)が、胚珠の中を泳ぐイチョウの精子(精虫)の観察に成功したことで、1887年(明治20年)に創刊された植物學雑誌(第116号)に論文「いてふノ精虫ニ就テ」を発表しました。
被子植物と違って胚珠がむき出しになっているのが裸子植物で、イチョウも他の裸子植物のスギやマツのように胚珠に取り込まれた花粉が被子植物と同じように花粉管を伸ばして精細胞を泳がせずに輸送することで、卵細胞と受精すると考えられていました。
このことにより、イチョウの雄は胞子生殖のシダ植物やコケ植物・藻類のように運動ができる精子を持ち、イチョウの雌は生殖器官として胚珠を持つといった進化を遂げながらも、精子という原始的な手段を用いて生殖していることは、世界的に大きな発見になったと言います。
同年には、池野成一郎(1866-1943)によって裸子植物のソテツからイチョウに似た形状を持つ精子が発見されました。

「銀杏の葉の一陣の風なきに散る風情は正にこれである。限りもない葉が朝、夕を厭わず降ってくるのだから、木の下は、黒い地の見えぬほど扇形の小さい葉で敷きつめられている。」(夏目漱石「趣味の遺伝」より)

12月初めのある日、祖父江町にある山崎駅を中心にして黄色のイチョウの葉で辺りが覆われています。
熟れたイチョウの実が扇形の葉と一緒にあちこちの木の下にびっしりと落ちており、その周囲の空気にはどのように形容して良いのか分からない質感のあるニオイを含んでいます。

1906年(明治39年)まで山崎村と呼ばれていた現在の祖父江町山崎の地区一帯に、約11,000本ものイチョウが植えられています。
1920年代以降にイチョウがギンナンの栽培を目的として植えられ始め、2000年頃までは景気が良くギンナンに高値が付いたこともあって田畑を埋め立てることで本数を徐々に増やしていきましたが、2000年以降は田畑の転作としてギンナンの栽培が注目されたことによって日本各地でギンナンの栽培が広がったこともあり、以前ほどイチョウが植えられることはなくなったと言います。

2021年(令和3年)に祖父江町山崎の地区に開園した「祖父江ぎんなんパーク」を出発地点とした散策道沿いは黄色のイチョウに包まれる道になっており、少し歩くと家の敷地内にギンナンの品種の一つ久寿(久治)の原木となり長い年月を生きたことが伺える太い幹を持った「久治イチョウ」に出会います。
さらに道筋の栽培用に枝を横に広げた背の低いイチョウが立ち並ぶ畑を見ながら進んでいくと、デンプンが蓄えられた乳根(担根体)が垂れる樹齢200年以上のイチョウ、倒れても葉を付けて生き続けるイチョウ、きょろきょろ見渡せば町の至る所でイチョウの姿を目にできます。
やがて祐専寺の見事に色づいた大樹が現れ、その境内では黄金色の大樹の姿を見上げながら佇む心奪われた人たちの仲間入りをすることになるでしょう。

イチョウは冬に入る頃になると一斉に葉を落とすと言うので、この大樹のイチョウも明日には葉をすべて落としてしまうのかもしれません。
冬に葉をすべて落としてしまう落葉樹のイチョウには強い寒風を防ぐような役割を担えないので、祖父江町の多くのイチョウは栽培をして収入を得ることを目的として植えられただけで、冬の季節風である伊吹おろしに対する防風といった意味はなかったのではないかと現在は考えられていますが、イチョウは樹葉に高い含水率を有している燃えにくい木なので火除け地として寺社の境内に植えられることが多かったと言います。

散策の出発地点に戻ってくる頃には、あのニオイもほどほどに慣れてきて、視覚のイチョウの色づきとともに嗅覚でも秋の祖父江町を楽しめるようになっていました。

イチョウの実のニオイは、果肉のようにギンナンを包んでいる外層が熟れてつぶれた際に放たれます。
ニオイの元は果肉のような外層に含まれている飽和脂肪酸の酪酸(ブタン酸)とエナント酸(ヘプタン酸)などによるもので、例えるならば酪酸は蒸れた足の臭い、エナント酸は腐った油の臭いと表現されています。
素手で熟れた汁に触れると、外層に含まれるビロボールによって肌がかぶれるなどの「ギンナン接触性皮膚炎」が発症します。

祖父江町に住む人にとっても期間限定とは言え、あのニオイには難儀しており、イチョウの実が熟す頃は風に乗ってきたあのニオイが洗濯物に付いてしまうので、どんなに天気が良くても外に洗濯物を干すことができず部屋干しになるため、しっかりと乾燥させるのにはコインランドリーに行くか衣類乾燥機が必要になってしまうのだけど、たとえ服を洗濯してもあのニオイが服に染みついているような気がして困ってしまうと言います。
また、イチョウが植わっている周辺の野菜畑は、ギンナンを取り出す作業の際に残った果肉(外層)を土の肥料にして野菜を作っていることが多く、その畑で育った野菜をいただいて家で料理をすると、なぜか食べた際に微かにあのニオイがしてくるので、そのニオイを打ち消すために料理の味付けがどうしても濃くなってしまうと笑っていました。
それでも、秋になると黄金色に染まる祖父江の町が気に入っているので、そういったことも含めてここの魅力だと言います。

強烈なニオイのため果肉(外層)が付いたままのギンナンを食べる野生動物は少なく、ニホンザルは手にした途端に悲鳴を上げると言い、アライグマやハクビシン、タヌキなどのわずかな雑食性の動物が好んで果肉(外層)を食べ、ギンナンは捨てるか糞と一緒に排出されることがあると言います。
食べ残されたギンナン、熟れた果肉(外層)が時間とともに虫や微生物によって分解されて露出したギンナン、自ら果肉(外層)を取り除いたギンナンを、ネズミやリスなどが堅い殻(中層)をこじ開けて中身(胚乳)だけを食べている姿や巣の痕跡から確認されています。

被子植物の種子は果実を食べる動物や風・水などによって散布され、スギやマツなどの裸子植物の種子は主に風によって散布され、遠くへと運ばれた種子は新しい環境に適応してその生育域を広げ、子孫を残していきます。
窒素固定菌と共生している現代のソテツは、ハシブトガラスやネズミによって種子が散布されていることが確認されています。
約2億年前に地球上で繁栄していたイチョウは、約1億4,000万年前の白亜紀に現れ始めた被子植物の果実と同じように動物に食べられることで種子が遠くに運ばれて繁殖していたと考えられていますが、現代のイチョウの種子はほとんどの動物が忌避するニオイを放つ果肉(外層)に包まれているため、種子が遠くに運ばれることがありません。
世界に分布する現代のイチョウは、中国の一部地域に自生するイチョウを除いて、その多くは人の手によって植えられており、ヨーロッパへは日本のイチョウが18世紀初めに持ち込まれたことで広がったと言います。
約2億3,000万年前から現れ始めた恐竜の生態を知る手がかりとなる恐竜の糞石(糞の化石)からギンナンが見つかっていることから、イチョウの熟した実のニオイに引き寄せられた草食恐竜がその実を食べて移動し、堅い殻を持つことで消化されなかった大量のギンナンが糞として排せつされたことによって各地に種子が散布し、イチョウが大繁栄したのではないかと考えられています。

古代より姿をほとんど変えていないという現代のイチョウは、きっとあのニオイもずっと変わっていないのでしょう。
かつては何種も存在したというイチョウは、葉の形も実が放つニオイもそれぞれ違って、もしかしたら甘美な実をつける種や馥郁としたニオイを放つ種が存在しており、それを好んだ恐竜や哺乳類と約1億6,000万年間も互いに進化し合いながら繁栄していたのかもしれませんが、もうその姿を見ることやそのニオイを嗅ぐことは叶いません。
唯一生き残った一種である現代のイチョウが放つ誰もが臭いと言ってしまうあのニオイも、本当に食べさせたい相手、今は亡きとある恐竜や哺乳類を引きつけよう、引きつけたいという強い想いが込められたニオイなのかもしれません。
もうその想いが決して届くことがない相手を今もずっと待っているのだろうかと、散りゆく祖父江町のイチョウの黄色い葉を眺め、足元に落ちていた実をうっかり踏んで漂うあのニオイに包まれながら思いを巡らせていると、今夜は日本酒で塩炒りギンナンを食べながら懐かしい思い出にふけりたいなと感じてしまいます。

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