「山姫の おるしらきぬを 秋の陽に さらすかと見る 小野の瀧つ瀬」(飯塚正重)
「御嶽山(おんたけさん)」を御神体に信仰する「御嶽信仰」の行者にとって水行の場であり、木曽八景の一つ『小野瀑布』と称えられ、標高1699mの「風越山(かざこしやま)」を背にした落差20mの直瀑『小野の滝(おののたき)』。
「木曽路小野の瀧といふは、布引、箕面などにもをさをさおとりやはする。是程の物の、此国の歌枕にはいかにもらしたるにや」(細川幽斎 著「老乃木曾越」より)
室町幕府13代将軍『足利義輝(あしかがよしてる)』に仕え、後に「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」と戦国を代表する武将に次々と重用され、剣術馬術など武芸百般・和歌・茶道・囲碁・料理などに精通し、第60代『醍醐(だいご)天皇』の勅命によって編纂された『古今和歌集』(913頃成立)の解釈を秘伝として伝える『古今伝授(こきんでんじゅ)』を『三条西実枝(さんじょうにしさねき)』から受けるほどの文武を修めた随一の教養人『細川幽斎(ほそかわゆうさい)』(細川藤孝 1534-1610)は、『小野の滝』を「是程(これほど)の物」とその美しさを絶賛し、和歌を詠むときに必要な名所としての「歌枕(うたまくら)」になぜ漏らしたのかと惜しみました。
浮世絵師『葛飾北斎(かつしかほくさい)』の全八図からなる『諸国瀧廻り(しょこくたきめぐり)』の一図「木曾海道 小野ノ瀑布」(1831)、浮世絵師『渓斎英泉(けいさいえいせん)』および『歌川広重(うたがわひろしげ)』による『木曽海道六拾九次』(1835-1837)の三拾九番「上ヶ枩(あげまつ)」に、『小野の滝』が描かれました。
「志ろたえに み類ひとすじは 手都くりの それとまがふ をのの瀧つせ」(土方歳三)
江戸時代末期、1863年に江戸幕府14代将軍『徳川家茂(いえもち)』の上洛にあわせ警護のために組織された「壬生浪士組(みぶろうしぐみ:後の新選組)」「新徴組(しんちょうぐみ)」の前身『浪士組』の二百数十名は、江戸を出立して『中山道(なかせんどう)』を一路京都を目指しました。
その際に、『浪士組』の一人『土方歳三(ひじかたとしぞう)』が、道中の『木曽八景』を詠んだと言われる『木曽掛橋(きそのかけはし)』と題した細やかな流れるような筆跡の和歌が伝わっています。
「ふきおろす 松の嵐も音たえて あたりしずしき 小野のたきつせ」(浅井洌)
古くは『東山道(とうさんどう)』と呼ばれ、江戸時代には五街道の一つで江戸と京都を結ぶ『中山道』、その内の「贄川(にえがわ)」から「馬籠(まごめ)」までの11の宿場が置かれた木曽地方の街道筋を『木曽路(きそじ)』と呼んでいました。
『小野の滝』は、『木曽路』の八つの景勝地の一つとしてあげられ、街道沿いからその美しい姿を現して、道行く多くの旅人の足を止めさせたことでしょう。
残念ながら、明治42年(1909)に鉄道の鉄橋が『小野の滝』の上空に架けられました。
幾百年と変わらなかった当時の景観をもう見ることはできなくなりましたが、鉄橋が架かる今の姿は日本の歴史が大きく動き、明治維新後の新たに築かれた日本を象徴しているように思えます。
『小野の滝』から落ちて流れる水は冷たく、往来する旅人たちや歴史に名を残した人たちが、この滝の水で汗を拭い、渇いた喉を潤したかと思うと感慨深いです。
当時を意識して滝からの水を両手ですくって口に含み、目を閉じ心地良く奏でる滝の音に耳を傾けると、姿は変わっても流れている時はまだ繋がっていることを感じさせてくれます。