「砕け散る荒波の飛沫が崖肌の巨岩一面に雨のように降り注いでいた。」(田宮虎彦 著「足摺岬」より)

太平洋に突き出す足摺半島、標高433mの『白皇山 (しらおうさん)』を中心に花崗岩(かこうがん)大地が隆起と沈降を繰り返してでき、一帯は三段の海成段丘が発達した高さ80mほどの海食崖をなす四国最南端の岬である『足摺岬(あしずりみさき)』。

『足摺岬』の先端には、光度46万カンデラ・光達距離38km・18秒間隔で3回の光を発する高さ18.1mの堂々とした白亜の『足摺岬灯台』が大海原を前にして悠然と構えています。

『足摺岬灯台』は、1914年4月1日にタイル張りの八角形の塔形で設置・初点灯されました。
1944年3月20日、太平洋戦争によって艦載機の機銃掃射を受けレンズ・回転機械が損傷し一時休灯となり、1960年に老朽化により現在のロケット型に改築されました。
2017年には、「恋する灯台」に認定され漆黒の大海原を照らす一筋の光は、恋する者たちの悩みや夢への迷い、そして将来への誓いなどにチカラを与えミライを指し示してくれる「人生の道標」となることでしょう。

「ふだらくや ここは岬の 船の棹 取るも捨つるも 法のさだやま」

『足摺岬』には、真言宗の開祖『弘法大師(空海)』(774-835)が822年に建立した『金剛福寺(こんごうふくじ)』(第三十八番札所)があり、『弘法大師』にまつわる『足摺七不思議』が存在しています。

『弘法大師』が祈祷のために背に乗って海中の不動岩に渡ったと言われる『亀石』や、岩の小さな窪みは汐が満ちている時には水がたまり、引いている時には水が無くなると言われる『汐の満干手水鉢』、「南無阿弥陀仏」と六字の名号(みょうごう)が彫られた『大師の爪書き石』など、7つの(多くの)不思議が伝わっています。

「心うくかなしく、泣く泣く足ずりしたりけるにより足摺りの岬というなり」

『足摺岬』の名の由来には諸説ありますが、鎌倉時代の中後期に『後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)』が綴った日記・紀行文『とはずがたり』に次のように書かれています。

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岬の堂に一人の僧と慈悲の心を持った小法師(こぼうし:若い僧侶)が修行をしていたところ、もう一人の小法師がやってきました。
一緒に朝と夕に食事をすることになりましたが、小法師はいつも自分の食事を分けていました。ある時、主人の僧は「一度や二度ならともかく、いつもそのように分け与えてはいけない」と戒めました。

翌朝も食事に来た小法師に「私は食べさせてあげたいのですが、主がお叱りになるのです。今後はもうおいでにならないでください。今回だけです。」と言って、また自分の食事を分けてあげました。
するとやって来た小法師は「あなたのこれほどの情けを忘れられません。どうか私の住み家へおいでください。さぁ参りましょう。」と言い、小法師はその言葉に誘われついて行きました。
主人の僧が怪しく思いこっそり跡を付けていくと、二人の小法師は岬に向かい一艘の舟に乗って、棹をさして南に漕ぎ始めました。
僧は「私を捨てて、何処に行くのか」と問うと、小法師は「補陀洛(ふだらく:観音菩薩の降り立つ山)世界に参ります」と答えると、二人は菩薩となって舟の舳先(へさき:船首)と艫(とも:船尾)に立っていた。
僧はつらく悲しくなって泣きながら足摺りをしたと言う。
それで、ここを足摺の岬と言うのである。

岩にはその足跡が残っているのに僧は虚しく帰った。それから「分け隔てする気持ちがあったから、このような悲しい目にあったのだ」と言って、このように(分け隔てることなく)住んでいるのだ。

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「… I made my mind to get back and to see Dear Mother …」

『ジョン万次郎』こと『中濱萬次郎(なかはままんじろう)』(1827-1898)の銅像が岬先端に立っています。
1827年に土佐国中濱村の漁師の子として生まれた『萬次郎』は、14歳の時に『足摺岬』沖での鯵鯖漁に出航する漁船の炊係(炊事と雑事をする係)として乗り込み、『足摺岬』の南東15kmほどの沖合で強風に船ごと吹き流され走行不能となり遭難します。10日間ほど漂流後に伊豆諸島の無人島『鳥島』に漂着し、海藻や海鳥を食し143日間を生き延びました。
アメリカ合衆国の捕鯨船『ジョン・ハウランド号』に発見され救助され、そのまま同乗し『萬次郎』はアメリカ合衆国へと向かうことになります。愛称は船の名前にちなんで『ジョン・マン』と呼ばれました。

アメリカでは船長の養子となり、英語・数学・測量・航海術・造船技術や民主主義の概念などを学び、1850年に日本へ帰る決意をします。翌年に日本の地に立った『萬次郎』は薩摩藩や長崎奉行所等で取り調べを受け、1852年に漂流から11年目にして故郷に帰ることができました。
その後は、士分(しぶん:武士の身分)に取り立てられ幕府に登用されることになり、幕末・明治と重要な役割を担うことになっていきます。

『足摺岬』には、1974年に開園した『亜熱帯植物園』がありタブノキやビロウの常緑高木など、自生するクワズイモ、ヤシ類、リュウビンタイを始めとするシダ植物の群落など約500種類もの南方系の植物たちを楽しむことができます。

四国最南端の岬である『足摺岬』は、『弘法大師』にまつわる伝説から『足摺り』の物語、そして『萬次郎』の漂流記と、岩壁に荒波があたり四方に飛び散る飛沫のごとく刺激的な話題が溢れる亜熱帯の地でした。

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高知県・四万十市へ

「四万十川という。当国の大河又渡川という。」(伊能忠敬土佐測量日記より)

全長196kmの四国内最長の川で、国土保全や国民経済上の特別に重要な一級河川である渡川水系の清流『四万十川(しまんとがわ)』。

『四万十川』には、増水時には川に沈んでしまうように設計された欄干(らんかん:転落防止の手すり)の無い『沈下橋(ちんかばし・ちんかきょう)』と呼ばれる橋が、本流には21本あり支流を含めると47本あります。
欄干が無いことで増水で橋が没した際に、流木や土砂が橋桁(はしげた)に引っかかることで破壊されたり、せき止められて洪水になることを防いでいます。たとえ破壊されても再建費用を安く抑えることができます。

『四万十川』の河口に一番近い『佐田沈下橋』(今成橋)は、1971年に架橋された全長291.61m・幅員(ふくいん:橋幅)4.2mの『沈下橋』です。

『佐田沈下橋』は、普段も車が通る生活用の『沈下橋』ですが、歩いて渡ると欄干が無いことで普段とは異なる緊張感を感じられます。
橋からおそるおそる顔を出してのぞくと『四万十川』が太陽に照らされて輝き、流れは絶えずして、あちらやこちらで白く波立つ「日本最後の清流」の澄んだ姿に目が釘付けになります。

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「珍奇ナル羊歯ニシテ我邦ノ固有種ニ属ス本地点ハ從来唯一ノ産地トシテ知ラレタルモノナリ」(天然紀念物調査報告【植物之部】)

茎は高さ10cmほどで常緑の葉は通常の長さが1m前後、時には2mに達し『幹』をつくらず『ヘゴ科』としては『木生(もくせい)シダ』とならないシダ植物『クサマルハチ』(学名:Cyathea hancockii)。

『木生シダ』とは、樹木状になるシダ植物のことで直立した『幹』を持っており、ある程度の高さまで直立して育ち、時には高さが10m以上にまで育つ例もあり、分類上はシダ植物の『ヘゴ科』と『タカワラビ科』に多く存在します。
『木生シダ』の『幹』は樹木とは違い肥大成長をしないので、『木本(もくほん:樹木のこと)』とは区別され、『木生シダ』を含めた『シダ植物』は、『草本(そうほん:草のこと)』に分類されて『茎』となりますが、『木生シダ』の『茎』は外見上は『幹』のように太くなり直立します。

熱帯から亜熱帯に分布する木生シダ『ヘゴ』(学名:Cyathea spinulosa)の『基部(きぶ:根元)』は径が50cmにもなりますが、これは茎から出る無数の『不定根(ふていこん:二次的に発生する根)』に厚く覆われ『基部』が『幹』のように太くなるためで、樹木のような『幹』の肥大成長とは異なります。

小笠原諸島に分布する「葉痕が丸に八の字を逆さにしたように見える」ことが由来になったヘゴ科の『マルハチ(丸八)』(学名:Cyathea mertensiana)は茎の高さが10m以上にもなりますが、同じヘゴ科の『クサマルハチ(草丸八)』は他の『木生シダ』のような『幹』をつくらず直立しないとても珍奇なシダ植物となります。

八束(やつか)の『クサマルハチ』は、1928年に国指定の『天然記念物』に指定されており、現在は近い将来における野生での絶滅の危険性が高い『絶滅危惧IB類(EN)』に分類されています。