「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」(蒲生氏郷)
自然石をそのまま積んだ『野面積み(のづらづみ)』の美しく壮麗な石垣に囲まれ、往時の建物を残さない広々とした空地を持つ『松坂城跡』。
城内の木漏れ日の下を石垣を伝い歩いてみると眼下に繁栄したかつての城下町を眺めることができます。
1588年に『蒲生氏郷(がもう うじさと)』によって四五百森(よいほのもり)に築城された『松坂城』は、豊臣秀吉の居城・大坂城の“坂”と吉祥(幸福・繁栄)の木とされる“松”から命名された平山城です。
蒲生氏郷は、織田信長を義父に持ち『レオ(レオン)』の洗礼名を受けたキリシタン大名でもあります。
浅井・朝倉氏との戦いや長篠の戦いなど信長の主要な合戦に参加し、1582年の本能寺の変の際には安土城の織田家を蒲生氏の居城・近江日野城で保護しました。
織田家の後継などを決めた清州会議後は信長の意志を継いだ豊臣秀吉に仕え、徳川家康と対峙した小牧・長久手の戦いの功績を経て伊勢松ヶ島に転封となり、島津氏との戦いである九州征伐後に松坂城と松坂の町をつくることになります。
信長より学んだ楽市・楽座の町づくりは、旧領の近江・日野商人や伊勢・大湊商人を呼び寄せ松坂の町を永く繁栄させていくことになります。江戸時代には松坂は商人の町として三井・小津・長谷川といった豪商を育てていくことになりました。
1590年の北条氏を滅ぼした小田原征伐後は、松坂から会津へ転封となり蒲生家の家紋『対い鶴』にちなみ名付けられた鶴ヶ城の築城、松坂の“松”に由来する『若松』の地名とキリスト教の布教とあらたな会津商人を育てる町づくりに繋がります。
1592年の朝鮮出兵で肥前名護屋城で体調を崩し、蒲生氏郷は1595年に京・伏見で天下への大望を抱えたまま無念の40歳の若さで亡くなりました。
その後、1619年に松坂は紀州藩の所領となり、松坂城には紀州から留守を守る城代とわずかな武士が在住しただけで政治的な縛りが少なく、松坂の商人が活躍し伊勢神宮への参宮者で賑わう商売と宿場の町へと発展していきます。
残念ながら天守は1644年に大風で倒壊し、そのまま再建されずその姿を想像図でしか確認することはできませんが、安土城の天守を参考にした構造を持ち、安土城の石垣よりも堅固で美しい石垣と評価される松坂城跡には、その神秘性と伴い空地にかつての建造物たちを想像する楽しみがあります。
「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」(本居宣長)
日本国の誕生から推古天皇の時代までの神々の物語や天皇家の神話を描いた『古事記』は、712年に編纂された現存最古の歴史書です。
1730年に松坂で生まれた『本居宣長(もとおり のりなが)』は、20歳ころからの愛読書である『源氏物語』を儒仏の倫理観や戒めを排除し物語として正しい理解を67歳に注釈書『源氏物語玉の小櫛(たまのおぐし)』で示し『もののあはれ』を提唱しました。
本居宣長の言う『もののあはれ』とは歌論書『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』によると、深く心に感ずる辞(ことば)で『すべて世の中にいきとしいける物はみな情(こころ)あり。情あれば物にふれて必ず思ふ事あり』また、『見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふ也』と記し、『故に人の情の深く感ずべき事を、すべて物のあはれとはいふ也』と説いています。
「恋せずは 人は心も なからまし 物の哀れも これよりぞしる」(藤原俊成)
平安時代の歌人・藤原俊成のこの歌の『物の哀れ』が、本居宣長にとって永い人生をかけ『日本人とは何か』を解き明かしていく出発点となりました。
その問いの答えを求めるため、万葉仮名と変体漢文で記され江戸時代中期には誰も読むことができなくなっていた『古事記』を35年の年月をかけ69歳で注釈書『古事記伝』全44巻にまとめ、失われていた日本の祖先の声を呼び起こすことになります。
日本人だからこそ感じ得られる『もののあはれ』。
その心を持って松坂城跡、そして松阪の地を散策すると、広々とした空地や石垣にも町を流れる川にも松坂の人々が生きさまざまな情が交差し、古来より積み重ねられた『もののあはれ』を身体で感じられる気がします。