「符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。蓋水之精也。」(「続日本紀」より)
標高908.3mの『笙ヶ岳(しょうがたけ)』を主峰に、南部に標高403mの『多度山』、北部に標高859mの『養老山』が連なる『養老山地』の北東に位置する、落差32mの直瀑『養老の滝(ようろうのたき)』。
『養老の滝』について、鎌倉時代中期の1254年に成立した『橘成季(たちばなのなりすえ)』編の20巻30篇726話からなる世俗説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』の巻八・第三一一話「美濃國の賤夫孝養に依りて養老酒を得る事」に、おおよそこのように記されています。
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貧しく賤(いや)しい男が山の薪(まき)を売って、朝夕に酒を好む老父を養って過ごしていた。
ある時、山に入って薪を取ろうとしたところ、苔が付いた石にすべって転びしばらく気を失ってしまうが、ふと気がつくと何処からか酒の香りがしてくるので、不思議に思ってあたりを見ると岩間の間から酒の色をした水が流れ出る所があり、汲んでなめてみると、すばらしく上質な酒だった。
うれしくなってその後、毎日これを汲んで、老父が満足するまで養った。
この事を耳にした第44代女帝『元正(げんしょう)天皇』は、霊亀(れいき)3年9月にこの地へ行幸(ぎょうこう:天皇が出かけること)し、この男をひとえに親孝行のゆえだと賛嘆し美濃守とし、岩間の泉を『養老の滝』と名付け、717年12月には『養老』と改元したのだという。
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「田跡川の 瀧を清みか 古ゆ 宮仕へけむ 多芸の野の上に」(大伴家持)
『養老の滝』に関する説話は、1252年に成立した『菅原為長(すがわらのためなが)』編と伝わる280余の説話を収録した『十訓抄(じっきんしょう)』の巻六・第一八話と、『古今著聞集』を踏襲した内容が、江戸時代以降の1657年に『水戸光圀(とくがわみつくに)』が着手し1906年に完成した『大日本史(だいにほんし)』を含めた多くの刊行物に掲載されて、「孝子(こうし:親孝行な子)」伝説の代表的な『養老の滝』の説話として現代まで伝わっていきます。
1695年に『林義端(はやしぎたん)』が著した怪異小説『玉櫛笥(たまくしげ)』の第一・第一話「養老の滝」では、養う対象が「老父」から「老母」へ、お酒の発見が「苔の生えた石にすべり倒れた後に、岩間からの酒の香りに気付いて発見」から「滝が流れるのを眺めていたら、酒の香りがしてきて発見」や、天皇の行幸時期など幾つかの違いが見られており、1612年以前に成立した男の名を『源丞内(げんじょうない)』と記された『養老寺縁起』内の説話に老母や滝として発見するなどの類似点があることから、『養老寺縁起』を系統としており『十訓抄』と『古今著聞集』を起源とする説話とは異なっているとされています。
室町時代(1336-1573)の能役者・能作者『世阿弥(ぜあみ)』が手がけた謡曲「養老」では、『養老寺縁起』に近い関係にあるが、第21代『雄略(ゆうりゃく)天皇』の時代であり「孝子」が養うのは老夫婦で、山道の疲れを覚え泉の水を飲むと気分が爽快になり老夫婦に飲ませたら若々しくなったので、自分たちで『養老の滝』と名付けたと変化しています。
「古ゆ 人の言ひ来る 老人の 變若つといふ水ぞ 名に負ふ瀧の瀬」(大伴東人)
平安時代(794-1185頃)初期に、『菅野真道(すがののまみち)』・『藤原継縄(ふじわらのつぐただ)』らが編纂した、第42代『文武(もんむ)天皇』から第50代『桓武(かんむ)天皇』までの95年間(697-791)を年代の順を追って記述する『編年体(へんねんたい)』で記され797年に成立し全40巻から成る『続日本紀(しょくにほんぎ)』。
『養老の滝』の最も古い説話は『続日本紀』巻七・養老元年の条に、おおよそこのように記されています。
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『元正天皇』は、霊亀3年9月に美濃國不破の行宮(あんぐう:仮の宮)に赴き数日間逗留しました。
その時に、多度山の美泉(よきいずみ)を覧て、自ら手や顔を洗ったところ肌が滑らかになりました。また、痛いところを洗うと痛みがすべて除かれました。
朕(ちん:天子が自称として用いる)の身体にとって大きな効き目があった。また、飲んだ人によると白髪が黒くなったり、禿頭に髪が生え、あるいは見えない目が見えるようになったり、あらゆる病が癒えたともいう。
昔、後漢の初代皇帝『光武帝』の時に醴泉(れいせん:太平の世に湧く甘みのある水の泉)が湧いて、これを飲んだ者は病が癒えたと聞いている。
符瑞書には、「醴泉は美泉なり。以て老を養ふべし。蓋し水の精なり。」と言っている、つまり瑞兆(ずいちょう:吉兆)に関して書かれた符瑞書(ふずいしょ)には、「醴泉は美泉である。これで老いを養うことができる。思うにこれは水の精霊である」と記されている。
美泉は大端(だいずい:とてもめでたい)である。
朕は凡庸で虚ろだけれども、これは天からの賜物に違いない。
よって「天下に大赦(たいしゃ:恩赦の一種)して、霊亀3年を改めて、養老元年とすべし。」とおっしゃいました。
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その後、『元正天皇』は養老元年12月22日の立春の暁に醴泉を汲み、京都に運ばせる命を出し「醴酒(れいしゅ)」(あま酒)にし、翌年の養老2年2月7日には再び美濃國の醴泉に行幸したと伝えられています。
まだ微かに夏の気配を残した或日の養老の滝。
見上げた空には、響く瀑声とともに飛散した水沫が光に照らされ、いつまでも輝き漂っています。
にこやかに孫を抱いた老人の親子三代の記念撮影、そして金婚式の記念に訪れた老夫婦の撮影に応じてみたり、訪れる人々それぞれの幸せの一端が、太平の世に湧くと言う美泉の水沫の一粒々々として、養老の滝の周囲に溢れているかのようです。