「泰平のねむけをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」
1853年7月8日、2隻の蒸気船と2隻の帆船が江戸湾の入り口にある「浦賀」に姿を現しました。この黒い艦船4隻を率いたアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官「マシュー・カルブレイス・ペリー」(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)の来航は日本の歴史の大きな事件「黒船来航」として現代まで語られています。
第13代アメリカ大統領「ミラード・フィルモア」(Millard Fillmore, 1800-1874)からの日本を開国させ太平洋航路を実現させる国書を携えた「ペリー」は、唯一の開港地だった江戸から遠い長崎の「出島」ではなく、江戸に近い「浦賀」に停泊したのは幕府への強い圧力をかける目的があったと考えられています。
その時に対応にあたった通詞(通訳人)で、英語を理解できる人はいませんでした。
そのため、蒸気船の舷側につけた日本の船から、「貴艦は退去すべし、危険を冒してこゝに碇泊すべからず。」とフランス語で書かれた巻物を開いて蒸気船の甲板から見えるよう高く掲げたとアメリカ側の公式記録には残っており、オランダ語通詞の「堀 達之助」(1823-1894)が叫んだ「I can speak Dutch.」が英語での精一杯の呼びかけでした。
幕府は長崎へ向かうように告げますが、「ペリー」がそれを固辞し国書を受け取らないなら武装して上陸し江戸まで届けると脅しました。
病床に伏せる第12代将軍「徳川 家慶」(1793-1853)では事の対応ができず、戦を避けるべく「ペリー」から国書を受け取る結論に達し7月14日に「久里浜」への上陸を許すことになり、この日をもって日本は開国への道を大きく進むことになりました。
実は老中「阿部 正弘」(1819-1857)は、ペリー来航の前年の1852年にオランダから「ペルリ(ペリー)」が「軍用蒸気船」で「交易」にやってくる情報をすでに得ており、翌年のペリー来航に備えていたと言われています。
また、ペリー艦隊には日本人である「仙太郎」(1832-1874)が乗船しており船員仲間からは「サム・パッチ」(Sam Patch)と呼ばれ、ペリー来航の際には「堀 達之助」とも面会をしています。
「In this disposition of of the people of Japan, what a field of speculation, and, it may be added, what a prospect full of hope opens for the future of that interesting country!」(「ペルリ提督日本遠征記」原題:Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan)
現在の「久里浜」には、「ペリー」の上陸日にあわせた1901年の7月14日に初代内閣総理大臣「伊藤 博文」(1841-1909)が揮毫した碑文「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」と書かれた記念碑が建てられています。 「伯理」は「ペルリ」の漢字での当て字で、「ペルリ」は「ペリー」のオランダ語読みになります。
この記念碑の周りは「ペリー公園」として整備されており、その一角に佇む横須賀市の市政80周年を記念し1987年に開館した「ペリー記念館」(入館無料)では、「ペリー」と船員300人が「久里浜」に上陸した図や関連したさまざまな絵図、そして黒船のジオラマなどが展示され「久里浜」を舞台にした近代への幕開けの歴史的事件を知ることができます。
「Nippon and America, all the same heart.」
「ペリー記念館」の外では、たくさんの子どもたちが公園内を走り回っています。
子どもたちの中には、黒船の来航や鼻の高い異国の人々を目の当たりにし驚愕した先祖を持つ者もいるのかもしれません。日本が欧米列強と初めて条約を結び世界に開かれる一歩になった約170年前の一日だけの出来事が日本の歴史に刻まれ、今もなお「久里浜」から語り継がれています。