「伊香保祢尓 可未奈那里曽祢 和我倍尓波 由恵波奈家杼母 兒良尓与里弖曽」
5世紀後半~6世紀初頭に『榛名山(はるなさん):伊香保嶺』の麓に築造され墳丘(ふんきゅう)の長さがおよそ100mある『井出二子山古墳(いでふたごやまこふん)』・『八幡塚古墳(はちまんづかこふん)』・『薬師塚古墳(やくしづかこふん)』の3基の前方後円墳で構成された『保渡田古墳群(ほどたこふんぐん)』。
『保渡田古墳群』は、その近くで発掘された古墳時代の豪族の館『三ツ寺Ⅰ遺跡(みつでらいちいせき)』から、埋葬者は『群馬』の由来ともなった毛野国(けぬのくに)の豪族『車持氏(くるまもちし)』と推測されています。
『八幡塚古墳』は、5世紀後半の築造で、土をたたき締め築かれた3段の墳丘は全長96m、その法面(のりめん:斜面)には川石などによる40万個の葺石(ふきいし)で飾られ、周囲には内堀・内堤・外堀・外堤・外周溝が巡り、古墳自体の全長は約190mにもなります。
外界との垣根となる法面の縁には、およそ6000本の『円筒埴輪』が並べられており、内堀には祭祀場と考えられる4つの中島が他の地域の古墳では見られない特徴となっています。
また、内堤には円筒埴輪に囲まれた2ヶ所の『形象埴輪配列区(A・B)』(約11m x 5m)があり、A区には54体ほどの人物や動物などの『形象埴輪(けいしょうはにわ)』が置かれていました。
王や巫女、力士の姿をした埴輪や鵜飼の姿を表す鵜形埴輪などが並び、椅子に座った人々の集団・立ち姿の人々の集団・狩りをする人と動物・動物の集団と様々な儀礼を7つの場面に分け配置していると考えられています。
約1500年前の6世紀初頭に『榛名山』が大噴火し、15km離れた『保渡田古墳群』一帯が火砕流によって埋もれてしまったことで、盗掘や古墳が荒れ大きく削られていても当時の痕跡を多く残し現代にその様子を伝えてくれました。
1993年から1997年にかけて発掘調査され、4年の歳月を経て1999年に築造当時の姿で復元整備されました。
復元に使用する円筒埴輪6000本は『プロジェクト6000』と称して住民の力による埴輪作りで進められました。
コンクリートで復元整備されていますが、築造当時の姿を実際の大きさで見ることができるのは1500年の時を経た歴史を思うと感慨深く、沈みゆく夕日に照らされる古墳の在りし日の姿に魅了されながら古墳周りを何周も歩いてしまいます。
八幡塚古墳の南西にある『井出二子山古墳』は3つの中で最初に築造され、八幡塚古墳と同様に4つの中島が存在し葺石で飾られ多数の円筒埴輪が並び形象埴輪が配列されていたと考えられ、現在は1500年経った現況を生かした修景整備され笹に覆われた姿を見ることができます。
『薬師塚古墳』は、八幡塚古墳の北西に位置し3つの中で最後に築造されましたが、現在は西光寺境内の一部となり古墳としてその姿を確認することは難しくなっています。
『保渡田古墳群』は、復元された『八幡塚古墳』と現況を生かし整備した『井出二子山古墳』、そして一切の手を付けていない『薬師塚古墳』とそれぞれ1500年を経た今の時代の古墳の姿を見ることができます。
『金井東裏遺跡(かないひがしうらいせき)』は、『保渡田古墳群』と同じように6世紀初頭の『榛名山』大噴火によって、8km離れた集落が火砕流に飲み込まれました。
2012年にバイパス道路建設に伴う発掘調査の際に、3軒の建物・畑・2基の古墳、馬を飼育していたことを裏付ける蹄(ひずめ)の跡や馬の歯3点と『剣菱形杏葉(けんびしがたぎょうよう)』と言われる馬の飾り金具などが見つかりました。
そして、甲(よろい)を着た両膝・両肘をつき前のめりに祈るように頭を地面につけた姿勢の武人『甲を着た古墳人』(推定40代前半・身長164cm)と首飾りを付けた女性『首飾りの古墳人』(推定30代後半・身長143cm)・幼児(推定5歳)・乳児(生後数ヵ月)が発掘され、この地域を代表する王とその家族ではないかと考えられています。
『甲を着た古墳人』から1.5m離れた場所から馬上での着用に適した900枚以上の小さな鉄の板(小札)と革紐を用いて造られた小札甲が見つかり、『甲を着た古墳人』との関係性やどういった経緯で火砕流に飲み込まれたのか諸説あり当時の古墳時代の生活や風習を知る大きな手がかりとなっています。