「かたわらに 秋くさの花 語るらく ほろびしものは なつかしきかな」(若山牧水)
1871年の『廃藩置県』以後の『小諸城(こもろじょう)』跡地を旧小諸藩士たちが整備し、1926年に造園家『本多静六(ほんだせいろく)』が提案した『小諸公園設計案』を元に、近代的な都市公園として誕生した『小諸城址 懐古園(かいこえん)』。
廃城となった『小諸城』は1872年に建物の競売が実施され、『本丸』に置かれた藩主の「御殿」は解体されて他の多くの建物は払い下げにより移築されますが、『大手門』と『三之門』だけが元の場所に残されました。
土地も競売にかけられてすべてが民有化されましたが、かつての姿を失っていくことを憂いた旧小諸藩士たちによって『本丸』の跡地は分割されて落札することになりました。
1880年に、旧藩士たちは「本丸の御殿跡」に鎮守神として城内で祀っていた『天満宮(菅原道真公)』と『火魂社(火之加具土命)』を合祀し、小諸藩主「牧野氏」の歴代の御霊を祀る『懐古神社』を建立します。
こうして『懐古神社』を中心にした本丸跡地周辺を『懐古園』と呼ぶようになります。
旧小諸藩士たちによって参道の整備や花木が植えられ、1881年には旧小諸藩士『佐々木如水』と親交があった『勝海舟(かつかいしゅう)』の筆による題字「懐古園之碑」が刻まれた石碑が建てられました。
1926年には、小諸町長による大公園設計が発案され、造園家『本多静六』による『小諸公園設計案』が提出され、4年をかけて約6万坪の公園整備を実施しました。
『小諸公園設計案』の内容には、「穴城」と言う特性を持った小諸城址の保存と自然美と人工美を両立させた一大風景を現すことを方針にし、運動場や相撲場・水泳場・鹿園・果樹園などの設置が記載されていました。
将来的な自動車交通なども予見した周囲環境の整備やトイレや水道設備の設置、喫茶店などの施設にも言及され、運営に民間の協力も含める画期的な計画案でした。
開園後には、1日の入場者数が3000人を超え1936年には年間入場者数が30万人を越えました。
1937年には更なる公園の拡張計画があがりましたが、日中戦争および太平洋戦争が開戦し『金属類回収令』による園内の銅像など金属類の供出が実施されます。
また、1940年から1942年にかけて噴火した『浅間山』の災害もあり維持管理ができなくなった『懐古園』は次第に荒廃していきました。
1945年の終戦後の『懐古園』は少しずつ復興され、1956年に小諸市が管理する「都市公園」としてあらためて整備されることになります。
『小諸公園設計案』の幾つかは実現には至らなかったですが、現在の『懐古園』には多くの施設が建設され春は桜、秋には紅葉と四季それぞれの移りゆく風情を、永い歴史を築いたかつての『小諸城』を偲びつつ訪れる誰もが楽しむことができる都市公園『小諸城址 懐古園』として「小諸」を代表する観光地となっていきました。
「紅梅や 旅人我に なつかしき」(高濱虚子)
1944年に太平洋戦争の戦火を避けて疎開した俳人・小説家『高濱虚子(たかはまきょし)』は、小諸の風景に触れて4年間を過ごしたことでその才能を大きく開花させました。
1899年、詩人・小説家『島崎藤村(しまざきとうそん)』は恩師でもある私塾『小諸義塾(こもろぎじゅく)』を1893年に開校した『木村熊二(きむらくまじ)』に招かれ、英語と国語の教師として『小諸義塾』に赴任しました。
小諸で過ごした6年間で『旅情』(千曲川旅情の歌)が詩歌を中心とする月刊文芸誌『明星(みょうじょう)』の創刊号で発表され、写生文『千曲川のスケッチ』を書き、短編小説『旧主人』『老嬢』などを出版し、小諸時代の最後に長編小説『破戒』を執筆しました。
「雪散るや 千曲の川音 立ち来り」(臼田亞浪)
病気療養のために訪れた歌人『若山牧水(わかやまぼくすい)』、小諸で生まれ『小諸義塾』で学んだ俳人『臼田亞浪(うすだあろう)』、疎開で4年間を過ごした日本画家『伊東深水(いとうしんすい)』などの多くの文化人に愛された「小諸」は文化的にも恵まれた地でした。
「秋立つや 大樹の上の 流れ雲」(牧野耕雨)
『小諸城』の起こりは、平安末期から鎌倉時代にかけ『木曽義仲(きそよしなか)』に組みした武将『小室光兼(こむろみつかね)』が屋敷を構えたことが始まりとなり、南北朝時代(1336-1392)には衰退した南朝方の「小室氏」に代わって北朝方の「大井氏」が台頭しますが、戦国の動乱期にはその「大井氏」も追い込まれ1487年に『大井光忠(おおいみつただ)』は『鍋蓋城』を、その子『光安』が支城『乙女城』を築城します。
この地を1554年に攻略した『武田晴信(たけだはるのぶ)』(武田信玄)は、東信濃の重要地として『山本勘助(やまもとかんすけ)』や『馬場信房(ばばのぶふさ)』らに築城を命じ、『鍋蓋城』と『乙女城』を原形として、尾根と谷、そして『千曲川(ちくまがわ)』に面した絶壁に区切られた地形を巧みに利用した、城外よりも低い位置に『本丸』がある「穴城」として『小諸城』を築きました。
「武田氏」滅亡後は、「織田氏」の家臣『滝川一益(たきがわかずます)』が入城し、1590年には「北条氏」を滅亡させた『小田原征伐』で功を上げた『仙石秀久(せんごくひでひさ)』が『豊臣秀吉』より5万石を与えられ『小諸城』に入封します。
その後、『小諸城』は天守を構え石垣で守られた「近世城郭」へと大改修が始まり、1601年には『小諸藩』初代藩主として城下町を整備し、子の『仙石忠政(せんごくただまさ)』が1622年に関ヶ原・大坂の役での功績による加増で『上田藩』へ移封されるまでの32年間『小諸城』の城造りはずっと続いていました。
『仙石忠政』の移封後は一時的に「廃藩」となりましたが、甲府藩主『徳川忠長(とくがわただなが)』の所領として併合されます。
その後は、譜代大名「松平氏」「青山氏」「酒井市」「西尾氏」「石川氏」が代わる代わる城主となりますが、1702年に『牧野康重(まきのやすしげ)』が1万5000石で入封し、『明治維新』を経て1871年の『廃藩置県』までの10代・約170年間を「牧野氏」が『小諸藩』を治めることになりました。
『小諸城』の金箔瓦で葺かれた三層の天守は、1626年に落雷によって焼失し幕府から再建の許しが最後まで出ることはありませんでした。
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑りなす蘩蔞は萌えず 若草も藉くによしなし しろがねの衾の岡邊 日に溶けて淡雪流る」(島崎藤村 詩「小諸なる古城のほとり」より)
紅葉の季節を迎えた『懐古園』では、子供たちは地面にひかれた赤朽葉の絨毯で遊び、大人たちはカメラを構えて色付いた木々を見上げています。
微かに吹く秋風に乗ってはらはらと舞う紅の葉々は、野面積みされた苔むす石垣にかかりながら地面に落ちていきます。
長野県では最古の1926年に開園した『小諸市動物園』では、置物かと思うほど直立不動のペンギンたちにも秋色が舞い落ちて得も言われぬ趣を醸し、ミニブタは秋色の餌場に顔を突っ込みゴソゴソと楽しそうです。
1000年築かれた「小諸」の地、約320年の歩みを持つ『小諸城』と旧小諸藩士たちによって守られ100年以上を経た『懐古園』、幾世紀にもわたって行き交った人々と交錯した様々な思いが、永く積もり繋がった歴史がここにあります。
草笛の音と哀愁を帯びた秋の空気に包まれる『懐古園』は、歳を重ねただけ積み上がった寂寞の想いに深く染み入り、これまでの歩みを懐かしく感じさせてくれます。