
「五月の甲州街道はまことによろしい。桂川峡では河鹿が鳴いてゐた。山にも野にもいろ/\の花が咲いてゐる。猿橋。- 若葉かゞやく今日は猿橋を渡る – こんな句が出来るのも旅の一興だ。甲府まで汽車、笹子峠は長かつた、大菩薩峠の名に心をひかれた。」(種田山頭火「旅日記」)
山梨県の東部に位置し、四方を山に囲まれ、富士山麓の山中湖を源にする桂川や支流の笹子川などの河川が流れ、五街道の一つ甲州道中が通った『大月市(おおつきし)』。
1954年(昭和29年)に、大月町や猿橋町などの三町五村が合併したことで、大月市は誕生します。
山間地にある大月市は、その約87%が森林に占められることから、夏は暑くて冬は寒さが厳しく、一日の寒暖差が激しい内陸性気候を持っており、集落は深い谷底を流れる川によって作られた河岸段丘に形成され、耕作に適した土地が少なかったことから、わずかな水田と斜面を利用した畑作を自家消費のために生産し、林業、養蚕や織物業などといった産業が行われてきたと言います。
「舟うけて眺むる月の桂川 夏そ友なき影のすゝしさ」(矢崎好貫)
大月の地名は、江戸時代初期に作られた用水路である五ヶ堰(ごかせぎ)の辺りに落葉広葉樹の欅(けやき)の巨樹が群生していたので、欅の古名の槻(つき)から大槻(おおつき)と呼ばれるようになったとも、806年(大同元年)に創建という三嶋神社の境内に育っていた四本の槻の巨樹にちなんで大槻となったとも言い、その後、桂川に架かる駒橋(現在の大月橋)の辺りから眺める月が、ひときわ大きな月に見えることから大槻から大月へと転化したと伝えられています。

「猿橋とて川のそこ 千尋におよび侍る うへに 三十餘丈の橋をわたし侍りける 此橋に 種々の說侍り むかし猿のわたしけるなと さと人の申侍りき さることありけるにや 信用しかたし 此橋の朽損の時は いつれに 國中の 猿かひ共 あつまりて勸進などして 渡し侍るとなん 志かあらば その由緒も侍ることあり 處から 奇妙なる 境地なり」(道興「廻國雑記」)
大月市を東西に貫いて、江戸時代に整備された甲州道中(甲州街道)が通っており、かつては道中に沿って十二の宿場が設けられていたことから、人や物が行き交い、観光や富士山を神聖な山と仰いで参拝する富士講や善光寺参りなどの通り道として大いに賑わったと言います。
甲州道中は、当初は甲州海道(甲府海道)と称されていましたが、新井白石(1657-1725)の海端の道ではないとの提言により幕府は1716年(正徳6年)に甲州道中と正式に改称しますが、引き続き甲州海道や甲州街道の名称も文書に散見され、明治時代以降になると政府によって国道に指定されたことから、文書や法令等には甲州街道の名称で表記されるようになっていきます。
「これから、ほんの僅かでございます、そんなに大きな橋ではございませんが、組立てが変っておりますから、日本の三奇橋の一つだなんぞと言われておりまする。」(中里介山「大菩薩峠」)
人々が行き交う甲州道中の途中には桂川が道を横切っていたことから、川には両岸の道をつなぐために「猿橋(さるはし)」が架けられており、現代でも江戸時代の趣を持つその姿を目にして往来することができます。
猿橋は、両岸の岩壁が川底から30mを越えてほぼ垂直に切り立った桂川の峡谷に架かる、橋長30.9m・橋幅3.33mの桔橋(はねばし, 刎橋)と呼ばれる構造を持つ橋です。
桂川の川幅の最も狭かった場所に架けられている猿橋は、橋を下部から支える橋脚(きょうきゃく)を持っておらず、両岸の岩壁から張り出した木製の部材である桔木(はねぎ)を下段から二列四段に重ね伸ばして橋桁(はしげた)を支えています。
また、補強として桔木と桔木の間に枕梁(まくらばり)と呼ばれる部材が桔木に垂直に交わるように組み合わせられ、桔木と枕梁には腐食防止のための屋根が付けられていることから、猿橋は現代の橋とは異なる奇観な様相を創り出しています。
古来から明治時代にかけて猿橋のような桔橋は、山間部の各所の渓谷で見られていましたが、猿橋は名だたる顔ぶれによって詩歌や俳諧、紀行文や絵画などに登場したこともあり、古くより周防の錦帯橋(きんたいばし)、木曾の桟橋(かけはし)、それに甲斐の猿橋を加えて日本三奇橋にあげられていました。
「推古帝時 百濟人志羅呼者 適來過于此 見猿王綠下藤蔓而渉 於是乎剏造橋也 未知孰是 蓋觀轉蓬而製車 見浮葉而爲舟 古之智者皆爾 余嘗聞之峽人 猿橋之壑而絕 桂川 …」(松平定能 編「甲斐國志」)
猿橋がいつ架けられたかは定かではなく、推古天皇(在位:592-628)の御代に、百済国の帰化人である志羅呼が、藤の蔓(つる)を徐々に揺らしながら深い峡谷の対岸へ渡る猿の姿を見たことから思い立って、両岸の岩壁に材木を下から前へと積み重ねていくことで橋を作ったと伝えられているが、猿橋の名が歴史上最初に出てくるのは1226年(嘉禄2年)に制作された仏像の銘であり、「嘉祿二年九月佛所加賀守猿橋住人也」とあることから地名として猿橋が存在していたとみられています。
次に猿橋の名が出るのが、関東地方の歴史を記した「鎌倉大草紙」であり、1426年(応永33年)に「武州横山口より発向ありて武田をせめらるゝ 信長もさるはしへ馳向ひ責戦ふといへとも」と一色持家(?-1477)と武田信長(?-1477)が猿橋で合戦したと記されています。
「名のみしてさけふもきかぬ猿橋の したにこたふる山川の聲」(道興「廻國雑記」)
1487年(文明19年)に東国を巡遊した京都の聖護院の僧である道興(1430-1501)が記した「廻國雑記」では実際の橋として猿橋についての印象を記しており、戦国時代の甲斐を中心に記した「勝山記」には1524年(大永4年)に「国中勢一万八千人立テ サルハシ二御陳ニテ日々二御ハタラキ候 ヲク三方へハタラキ ヤイクサアリ」と上杉憲房(1467-1525)との一戦に向けて武田信虎(1494-1574)が一万八千の兵を猿橋に集め布陣したこと、1533年(天文2年)に「サルハシ焼申候」と猿橋が焼失し、1540年(天文9年)に「サルハシカゝリ申候」と猿橋が復興したことが記されていることなどから、少なくとも室町時代には川に架かる橋として猿橋は存在していたと考えられますが、この時代の橋の形状については分かっておらず、橋の名は「サルハシ」と訓じ、地名は猿橋で「エンキョウ, エンケウ」と音読で呼ばれていたとも言い、橋と地名のどちらが先にあったのかは分かっていません。
江戸時代に入ると、五街道の一つとして江戸の日本橋から甲府、そして下諏訪で中山道に合するまでの道として甲州道中が整備され、廻り道のない猿橋の一帯は、軍事上の重要な拠点としてだけでなく、交通や運輸においても要となる地であったことから、1671年(寛文11年)に日本橋から24番目の宿駅として猿橋宿が置かれます。
猿橋宿の様子は、1806年(文化3年)の「猿橋宿絵図」や「甲州道中分間延絵図」に描かれています。
1843年(天保14年)の猿橋宿には家数137軒、人口542人(男267人・女275人)、本陣が一軒、脇本陣が二軒、旅籠が十軒あり、また人馬の継ぎ立てなどをおこなう問屋場、茶屋や芝居小屋などがあったといい、宿泊や休憩の場として多くの人々が訪れ、猿橋が架かる渓谷や山々の景色を眺めるためにしばし足を止めたと言います。

「さるはしや 蝶も居直る 笠の上」(芭蕉)
「ゑんかうの 猿橋なれや はるかにて 手にはとられぬ 水の月影」(十返舎一九「諸国道中金之草鞋」)
「甲斐國大原村の桂川の中央に架す日本三奇橋の一にして層々相畳みて両端突出し平坦の橋板を上部に敷く立つつ渓流を望めば魂自から躍る」(小林清親「日本名勝図會〔猿橋〕」)
1841年(天保12年)に甲州を訪れた歌川広重(1797-1858)は、山々の遠近や桂川の流れなど猿橋一帯の景色を絶景と賛美し、江戸に戻ってから猿橋を描いた「甲陽猿橋之圖」を世に出します。
猿橋を見上げ、桂川が流れる渓谷の高さ、低い位置に昇り松にかかる大きな満月、遙か遠くに見える山々と民家、猿橋を渡る一行、それらが一体となって叙情豊かに縦長に描かれています。
晩年の歌川広重が、1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけて作成した「六十余州名所図会」の一枚として再び猿橋を見上げるように描いた「甲斐 さるはし」は、桔木や屋根など橋の構造が分かる構図になっており、その姿は現代に架かる猿橋とそう違わないように見えます。
松尾芭蕉(1644-1694)は甲州を二度訪れて句を詠み、荻生徂徠(1666-1728)は「風流使者記」に猿橋五奇の一文を記し、葛飾北斎(1760-1849)が描いた「北斎漫画七編 甲斐の猿橋」、十返舎一九(1765-1831)が著した「諸国道中金之草鞋」、亜欧堂田善(1748-1822)が描いた「甲州猿橋之眺望」、二代葛飾戴斗が描いた「猿橋月夜景」、三代歌川広重(1842-1894)が明治天皇巡幸の様子を描いた「諸国名所之内甲州猿橋遠景」、小林清親(1847-1915)が描いた「日本名勝図會」などに現れるそれぞれの猿橋の姿は、どれも神秘的であり魅惑的な橋と映り、まだ猿橋を訪れたことがない、または猿橋を知らなかった人々にとって強い興味と関心を与えたことでしょう。

「桂川の谷では、到る処で鮎が取れた。与瀬、上野原、猿橋、大月、暑いけれども、ちよつと下りて見たいやうな気もした。」(田山録弥「スケツチ」)
甲州道中に並行するように桂川が流れ、そして桂川に注がれる葛野川や笹子川など数多くの河川では、川遊びだけではなくアユ(鮎)やニジマス(虹鱒)、ヤマメ(山女)など放流された魚を釣る川釣りを現代では楽しむことができ、流れる豊かな水量は発電用水として複数の発電所施設で使われています。
猿橋が架かる桂川の岩壁の大部分は約1,000万年前に火山灰などが堆積して固まった凝灰岩ですが、猿橋の南側(右岸側)の上部は、約9,000年前に富士山が噴火して桂川に沿って流下してきた溶岩流で覆われており、この溶岩流は「猿橋溶岩流」と呼ばれ、厚さ約9mの玄武岩から成っていることから、桂川の各所で溶岩流が冷えて固まって規則的な柱状の割れ目となった柱状節理を見ることができます。
また、桂川の流れが長い時をかけて猿橋溶岩流と凝灰岩を深く削ったことによって壮麗な渓谷を生み出し、現代まで引き継がれる猿橋が架かる景色を作り出しました。
猿橋の下流には、峡谷の岩壁を貫く1912年(明治45年)に完成した橋長42.7mの鉄筋コンクリート橋である「八ツ沢発電所 第一号水路橋」が見えており、八ツ沢発電所は桂川の水を利用した日本で初めての大規模な調整池式発電所であり、この第一号水路橋は発電のために現在も水を送るのに活用されている約14kmの範囲に現存する水路式発電所施設の一つになっています。
第一号水路橋のすぐ下流には、1902年(明治35年)に開通した中央本線のトラス構造を持った鉄道橋である「第二桂川橋梁」が架けられ、猿橋のすぐ上流には、1934年(昭和9年)に鉄筋コンクリート製の「新猿橋」が架かったことで、猿橋の周辺には桂川に並行して架かる計四本の橋が見られるようになりました。
第二桂川橋梁は、中央本線が複線化された1968年(昭和43年)に桂川の南に作られた猿橋トンネルを通ったことから廃橋となり、代わりに1973年(昭和48年)に新たな国道が通る鉄筋コンクリート製の赤い「新猿橋」が架けられたことから、現在では桂川の上流から下流へ県道の新猿橋、猿橋、第一号水路橋、国道の新猿橋が架かる特異な景色になっています。
「吾過猿橋驛 驛西有橋長十丈 高六十六尋 無有橋柱 兩岸悉鉅材架起 相傳昔有猿王剏造 誠國中之奇觀也」(荻生徂徠「風流使者記」)
猿橋は木造橋のため雨露にさらされて腐朽することから、橋の架け替え(掛け替え)が二十数年ごとの割合で行われ、一番古い記録では1676年(延宝4年)に架け替えが行われた記録が残っています。
その後の1872年(明治5年)の修覆までの間に18回の修覆もしくは架け替えが行われ、それ以前においても何度か架け替えが行われていたとみられています。
猿橋の修覆もしくは架け替えの際には、下流に仮橋として円筒形に編んだ籠(かご)に石を詰めた蛇籠(じゃかご)をいくつも川中の数カ所に重ねて、橋を架けて筵(むしろ)を敷き、その上に土砂を敷き詰めた土橋を架けていたと言います。
猿橋の形状や寸法が書かれた工事完了報告書ともいえる出来形帳(できがたちょう)によれば、1777年(安永6年)以降の猿橋は構造形式に変化はなく、ほぼ同一の形式が江戸時代から明治時代まで引き継がれていたと考えられています。
しかしながら、1872年(明治5年)の修覆後の1900年(明治33年)に老朽化による架け替えが必要になると、甲州街道(甲州道中)にも人力車や馬車が通るようになっていた時代の変化に合わせて、猿橋は桔木を二列から三列にすることで橋幅を拡張することになりましたが、他の桔橋などの日本古来の木造橋がトラス構造やアーチ構造を持つ西洋式木造橋などに置き換わる中で、猿橋は古くからの桔橋の形式を残す方針をとったと言います。
1932年(昭和7年)に史蹟名勝天然紀念物保存法によって名勝に国指定された猿橋にも自動車が往来する頃の1951年(昭和26年)に行われた架け替えは、1900年(明治33年)の仕様を踏襲した架け替えとなり、二度の修覆を経て1979年(昭和54年)に猿橋の腐朽が著しかったことから全面的な架け替えをすることが決まります。
猿橋を挟んで近代的な橋が架かっていたこともあり、元来の人道橋だった頃の猿橋の姿に戻すことになり、1851年(嘉永4年)の出来形帳(甲州道中猿橋宿地内字大猿橋掛替御普請出来形帳)に準拠した復原が行われることになったことから、橋幅は5.5mから3.33mへ、桔木を三列四段から二列四段へとし、桔木部の根元を従来の土からコンクリートで固め、長大な材木は将来の入手の困難が見込まれることから鉄骨(H形鋼)の外装に木板を貼った構造材などを用いることによって、1984年(昭和59年)に約3億7,681万円の総事業費をかけた猿橋の架け替えが完了しました。
「谷ふかきそはのいはほのさる橋は 人も梢をわたるとそ見る」(道興「廻國雑記」)
歌川広重は甲州の旅で猿橋を訪れた際に「さる橋向ふ茶屋にて晝喰 やまめの燒びたし 菜びたしなり」と、猿橋宿の茶屋で昼食をとったと「甲州日記」(天保十二丑とし卯月 日々の記 一立齋)に書き記しました。
明治時代以降になると猿橋周辺の景色は時代を経るごとに変わっていき、1940年(昭和15年)に襲った大火では七十七戸が全半焼したことによって町並みはさらに一変し、現在では歌川広重が訪れた頃の猿橋宿の面影を見つけることは難しくなりました。
しかしながら、歌川広重が生きた時代の、歌川広重が描く浮世絵に魅了された人々が訪れ眺めたであろう猿橋を、現在でも桂川の深い渓谷に架かっている姿で目にすることができます。
猿橋の歴史を思い、感慨深く歩いていると突然、歓声が桂川から聞こえてきたので何事かと欄干から見下ろすと、桂川の上流から下ってきた遊覧ボートに乗った人たちが下から猿橋を見上げて、歌川広重が描いたあの猿橋の姿を眺めているようです。
近代に入ってから二本の新猿橋が桂川に架かったことで、古代からの猿橋はその役目をほぼ終えましたが、幾度もの架け替えや修復を経て歴史的遺産としてその姿を現代まで引き継いできました。
今となっては、多くの観光客が訪れ喜ぶ観光名所としてのみ猿橋は存在しているのかと思っていましたが、朝方に猿橋を渡ったすぐ先の中学校に向かうであろう二人の学生が猿橋を渡っている姿を見たことで、猿橋の役割は未だ終えておらず、誰かにとってはこれからも日常の生活に欠かせない橋なのだと感じさせてくれます。


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「角郭ふ岩殿山は 桂川の北涯に聳たり 風致可愛く 漢畫展たらん貌なり 七所権現の祠あり 巖窟に據て殿宇を作す かれ岩殿の名は起なり」(村岡良弼「甲信紀程」)
山々に囲まれた大月市の中でもひときわ目を引く山があり、桂川の北岸にそびえ、山頂付近の岩石が露出した標高634mの風変わりな山は「岩殿山(いわどのさん)」と呼ばれています。
岩殿山は、500万年前頃に起きた地殻変動によって海を挟んで離れていた陸地(丹沢地塊)が山地(関東山地)に向かって衝突し、さらに150万年前頃に別の陸地(伊豆地塊)が衝突したことで、最初に衝突した陸地と山地の間にあった海の堆積物が強く押し上げられていったことにより形成されたと考えられています。
「欲問當年遺恨長 英雄前後幾興亡 巉巌千尺荒墟上 仗劍悵然見夕陽」(乃木希典)
岩殿山全体が、海底に堆積した砂や小石などが混ざった砂礫(されき)が温度や圧力などの物理条件下で長い時間をかけて固まった礫岩(れきがん)から成っており、特に礫岩が広く露出した鏡岩と呼ばれる岩殿山南面の大絶壁は、1879年(明治12年)に山城研究のため岩殿山に登った陸軍中佐の乃木希典(1849-1912)が「ウサギも登れない岩山である」と称したほどでした。
「この大きな一枚岩のような山、これが武田の勇将小山田備中守が居城岩殿山、要害としても面白いが景色としても面白い。」(中里介山「大菩薩峠」)
岩殿山の名は、山腹にある岩洞が自然の殿堂をなしていたことが由来と伝わっており、平安時代の岩殿山の東麓には、天台宗の岩殿山円通寺が開かれており、岩殿山は心身を鍛練する修験道の聖地として栄えたと言います。
1532年(天文元年)に小山田信有(1488-1541)が岩殿城(岩殿山城)を築城したことで知られていますが、実際にはいつ誰によって岩殿山に城が築かれたのかは分かっておらず、その当時に小山田氏と敵対していた武田氏の城だったのではないかとの説もあります。
「おほろなる月もほのかにくもかすみ はれてゆくゑのにしの山のは」(武田勝頼:理慶尼「理慶尼乃記」)
「あだに見よたれもあらしのさくら花 さきちるほとははるのよのゆめ」(武田信勝:理慶尼「理慶尼乃記」)
「黒髪の乱れたる世ぞはてしなき 思に消ゆる露の玉の緒」(北条夫人:春日惣次郎「甲乱記」)
1582年(天正10年)の織田信長(1534-1582)による武田氏を滅ぼす甲州征伐において、敗走する武田勝頼(1546-1582)が居城としていた新府城を放棄して岩殿城に落ち延びようとした際に、岩殿城に入城していた武田勝頼の腹心で武田二十四将の一人に数えられた小山田信茂(1545-1582)の裏切りにあったことで、岩殿城に入城できずに追い返された武田勝頼は、終焉の地として先祖が弔われている天目山の栖雲寺に向かい、その道すがらで襲われて戦死したとも、襲われて天目山の麓で継室の北条夫人(1564-1582)と嫡男である武田信勝(1567-1582)と共に自刃したとも伝わり、これにより甲斐の武田氏は滅亡します。
長年仕えていた武田氏を裏切って織田方に投降した小山田信茂は、織田信長の嫡男である織田信忠(1557-1582)に不忠を非難されて妻や子らと共に処刑されたと伝わっています。
そして、岩殿城は1582年(天正10年)、もしくは徳川氏の治世が確立された後に廃城となり利用されなくなったと言います。

「岩殿山で啼く鳥は 聲もよし音もよし山の響きで」(麥打唄)
暑い夏のある日、岩殿山の山頂への登山口の一つである畑山登山口へ向かいます。
登山口は四つありますが、この時には畑山登山口のみが開かれており、他の登山口は落石の危険性が高いか途中で通行止めになっています。
畑山登山口から登り始めるとすぐに山頂もしくは「鬼の岩屋(新宮洞窟)」への分岐になります。
鬼の岩屋へ向かうと、立ち入りは禁止されていて近づくことはできませんが、圧倒的な存在感を放つ岩洞が現れます。
ここに岩殿山円通寺の新宮として十一面観音を祀った懸け造りの堂宇があったのですが、明治時代の神仏分離令によって堂宇は取り壊され、岩殿山円通寺そのものも廃寺となってしまったと言います。
鬼の岩屋は、数カ所ある岩殿山の岩洞のうちで一番大きく、岩殿山の鬼が住んでいたと伝わっており、奥の暗闇から今にも鬼か何かが這い出てきそうです。
それもそのはず、岩殿山に巣食う鬼を桃太郎が退治した伝説が大月市には伝わっています。
桂川をどんぶらこと流れてきた桃から生まれた桃太郎は、犬目の地でイヌ、鳥沢の地でキジ、猿橋の地でサルを家来にして、岩殿山の鬼退治へと出かけたと言います。
そのため、大月市には桃太郎の鬼退治にゆかりのある「鬼の杯」や「鬼の杖」などが残っている場所が点在しているので、それらを巡ってみるのも楽しそうです。
分岐に戻って改めて岩殿山の山頂へと向かい、一部急峻な場所はあっても比較的登りやすい登山道を行くと、40分ほどで本丸跡や狼煙台跡があり、近代の電波塔が立つ山頂へとたどり着きます。
山頂の開けた場所からは遠くの富士山を眺められ、本日拝めた富士山は夏にも関わらず冠雪しているかのように白い雲をちょこんと頂に乗せた姿です。
1707年(宝永4年)に宝永大噴火があったとしても、富士山の綺麗な円錐形の姿は戦国時代から引き継がれており、その昔に岩殿城の城主が本丸から眺めた景色、誰かが物見台からうかがっていた麓の景色、数百年を経た変遷はあっても、今しがた眺めている景色とそれほど変わっていないのかもしれないなと、ベンチでなかなか乾かない汗を拭い、夏虫の羽音を聞きながら、ぼんやりといつまでも眺めてしまいます。

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「笹子峠は萩原山脈の一部にして海拔三千五百尺、國中を兩斷して以東を郡內以西を『くになか』といふ。古來習俗を異にする所尠なからぞ。」(土屋操 編「甲斐國史解」)
「夫ヨリ坂ヘ懸リ笹子峠ト云大難所さみしき山也 殊之外高シ深山也 中段ニ茶屋有 蕎麦飯餅酒の類有 蕎麦ト餅ヲ喰 茶屋ヨリ上ニ大杉有 弐丈四尺廻ル」(上総国夷隅郡大野村名主喜左ェ門「日記帳」)
甲斐国の東部地域を指す郡内地方と中西部地域を指す国中地方との境目となり、現在の郡内地方となる大月市と国中地方となる西側の隣接市である甲州市の境にある標高1,096mの「笹子峠(ささごとうげ, 篠子嶺, 篠籠嶺, 笹子嶺)」は、高低差約500mで登り下り10km余り、甲州道中の最大の難所として知られており、古くは板東山と呼ばれていました。
笹子峠の途中には茶屋が四軒ほど集まっており、峠を登り下りする旅人は茶を飲み、蕎麦や餅などを食べて一息つき、蕎麦は淡薄(たんぱく)な味わいで人気があり、餅は力持ちとかけた「峠の力餅」と称して旅人たちを呼び込んでいたと言います。
また、笹子峠の湧水は江戸の茶人が茶会を催す際にわざわざ取り寄せるほどの名水だったと伝えられています。
明治時代になると、1880年(明治13年)の明治天皇(在位:1867-1912)の巡幸や国道の指定によって道幅を広げたり、勾配を緩やかにするために道を蛇行させたことで、笹子峠の景観は大きく変わってしまいましたが、古くからの笹子峠の道筋は部分的ながら残っており、そこにはまだ当時の面影が残されています。
「さゝこのとうげに あまたの物のふ ぢんとつてふせぎ つるのこふりへ いれざりければ 御つかい罷かゑり 此よし もふしあくる かつよりきこしめし かのものに たばかられしことの 口をしさよと てんにあがり ちにしづみ 御はらたたせたまへどかなわず おやまだ こゝろかわりのよしを つたへきゝ 御ぢんにはかに さわぎたち あたりのいゑに 火をかくれば あるにあられぬ 御ありさま めもあてられぬけしきなり げに りうけんのなきあまりに 天目山へ 御こしなされ ひともちもたばやと おほしめし すでに こまこふをいでさせたもふ」(理慶尼「理慶尼乃記」)
岩殿城に向かう武田勝頼が腹心の小山田信茂の裏切りを知ったのは、新緑に包まれ始める頃の笹子峠だったと伝えられています。

「絕頂より下ること十丁許にして圍二丈五尺許の古杉あり箭立杉と呼ふ昔時軍陣に出る兵士上箭一筋を此杉に射立て富士淺間明神に賽せしと云り」(大森快庵 編「甲斐叢記」)
笹子峠の絶頂(やまのうえ)より1kmほど下った、標高940mほどの所に立っている杉の古樹は「矢立の杉(箭立杉)」と呼ばれ、戦国時代に戦場に赴く武士がこの杉に矢を射立て武運を祈願し、山に何か異変があると矢立の杉が唸ると伝わっています。
また、江戸日本橋方面の東側から難所の笹子峠を登る際には、この矢立の杉を目標にして頂上を目指し、矢立の杉にたどり着くとその下で休んだと言います。
矢立の杉は、樹齢千年を超えた樹高約28m、根回り約14.8m、落雷があったと伝わる樹幹は地上約22mで折損しており、樹幹の中は上まで空洞で洞内から上を仰ぐと空が丸く見えますが、現在でも四方に枝を張り緑の葉を茂らせて生き続けています。
樹幹の下部北側の樹皮が広く剥がされて木質部が露出しているのは、1907年(明治40年)に本州南部に停滞した二つの台風の影響による大雨が土石流となって笹子峠の一帯を襲ったことによるもので、南側は渓流のために根元の土を削られてしまい、樹根が露出しています。
樹幹の空洞内は炭化しており、1929年(昭和4年)に野宿をした者が焚き火をしたことによると言います。
歌川広重は甲州の旅で矢立の杉を訪れた際には、「夫より又のぼりて 矢立の杉 左にあり 樹木生茂り 谷川の音 諸鳥の聲 いと面白く うか/\と峠を越えて 体 下りにかゝる」と、難所と呼ばれる笹子峠での歩みを楽しそうに甲州日記に書き記しています。
「中の茶屋を通って、矢立の杉の下で一行が立ち止まってその杉を見上げました。『ははあ、矢立の杉というのはこれか』と言って杉のまわりをまわり歩いている連中が、面白半分に手を合せてその杉の大きさを抱えてみました。『ちょうど七抱え半ある』」(中里介山「大菩薩峠」)
二代歌川広重(1826-1869)は、1859年(安政6年)から1861年(文久元年)にかけて「諸國名所百景」を作成し、その内の一枚の「甲州 矢立杉」には、二人の旅人が一緒に手を広げて収まりきらない矢立の杉の樹幹周りを測っている姿と、その様子を振り返って見ている着物姿の女性が、矢立の杉の巨樹が収まらない構図で描かれています。
「武夫の手向けの征箭も跡ふりて神さび立てる杉の一もと」
現在でも笹子峠に立つ矢立の杉に出会うことができ、描かれた浮世絵ほどには高さはなくなったが、それでも太い幹が巨樹であることを物語っており、周囲の木々とは異なった存在なのが一目で分かります。
樹幹の空洞、剥がれた樹皮、削れた地面、その場から動くことなく、どのような経験をこれまでしてきたのだろうか、そして旅人や戦場に赴く人をどれだけ見送ったのだろうか。
今にも崩れ落ち、命を絶えそうな有様ながらも力強く生きる、この矢立の杉を見た誰もがその姿に心を打つように感じます。


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「棧道のあらき道中に まして雨風いたくふゝきてこしかた行すゑきりふたかり 雨衣破れ笠をたに取あへねは 目もくれたましひも消えかへりて 心ほそくおそろしき事たとふるにものなし こは笹子峠とて 登り降り二里餘なる 街道第一の難所なりけり」(黒川春村「並山日記」)
笹子峠の標高約1,050mの場所に1938年(昭和13年)に開通した「笹子隧道(ささごずいどう)」があります。
坑門の左右に見られる二本並びの柱形装飾と上部の突き出た持送(もちおくり)状装飾が特徴の洋風建築的な鉄筋コンクリート造の全長239mの隧道(ずいどう, トンネル)で、標高約1,096mの笹子峠を越えるために1936年(昭和11年)から1938年(昭和13年)にかけて開削されます。
しかしながら、笹子隧道に至る道は勾配が急であり、小半径の曲がり道が多く道幅も狭かったことから山梨県の発展を妨げる要因にもなっており、輸送時おける時間や燃料などの費用がかかることから自動車交通の場合は、笹子峠よりも走行距離が長くなるが南方の御坂峠を越える迂回路を選ぶことを余儀なくされます。
これらの解決のために山梨県は1953年(昭和28年)に、笹子峠の標高約700mの場所に新たな隧道を開削する計画を立て、1955年(昭和30年)に国の直轄事業として着工し、1958年(昭和33年)に全長2,953mの「新笹子隧道」を完成させます。
これにより、甲府と東京間の輸送時間の大幅な短縮が実現したことで輸送費を抑えられるようになっただけでなく、青果物(生鮮野菜と果実類)の運搬中の荷痛みが減少し、特に基幹作物となっていた傷のつきやすい桃の輸送においては新たな隧道が開通したことの影響は大きく、新笹子隧道は産業や観光の進展、産業経済の開発振興に重要な役割を果たしたと言います。
新笹子隧道の開通時には1956年(昭和31年)に発足していた日本道路公団が有料道路として直轄管理しますが、1971年(昭和46年)には予定していた償還期間を早期に完了したことで無料開放されます。
「笹子隧道は我國最長の隧道にして、長さ一萬二千四百七十五尺、世界に難工の名あり。故にその紀念として隧道の東口に伊藤候の因地利、西口に山縣候の凌天工といふ眞蹟を刻す。」(土屋操 編「甲斐國史解」)
現在、県道212号の笹子隧道と国道20号の新笹子隧道(新笹子トンネル)だけでなく、西側の国中と東側の郡内を結ぶ笹子峠の周辺には、別のトンネルが存在しています。
1903年(明治36年)に中央本線の単線として全長4,656mの「笹子隧道」(現在の笹子トンネル)が開通し、1966年(昭和41年)には全長4,670mの「新笹子トンネル」が開通したことで、中央本線は上り下りの複線となります。
1977年(昭和52年)に中央自動車道の下り全長4,717 mと上り全長4,784 mの「笹子トンネル」が開通します。
「殊ニ笹子隧道ハ中央線中最大至雜ノ場所ニシテ地質ノ硬軟湧水ノ多寡等豫メ推測ヲ下ス能ハス掘鑿上臨機特殊ノ方法ヲ講セザルヲ得ザル場合モアルベク」(直営施工上申書, 1896.10.27附)
その時代に求められた幾つもの笹子隧道が笹子峠に開削されましたが、1896年(明治29年)に着工した全長4,656mに及ぶ中央本線の笹子隧道は、1903年(明治36年)の開通までに延べ195万9,000名もの人夫が投入され、欧米の最新式機械を掘削に使用する当時の日本土木界の最大工事だっただけではなく、それまでの中央本線の中で最大の難工事となったと言います。
掘削に一昼夜かけても30cmほどしか進まない鉄のような堅盤に阻まれることが数カ月に及び、湧水が一分間で500Lにも達したほどで、資材運搬においても山梨県と静岡県の県境にある標高1,104mの篭坂峠を越えるなどの必要もあり、悪疫の流行による人夫不足や経済恐慌による既定予算の減額などの困難を極め、死亡者5名と負傷者94名を出しながらも8年間の工期予定を5年7カ月に大幅短縮させて開通させます。
完成した笹子隧道の東口坑門には伊藤博文(1841-1909)の揮毫による「因地利」、西口坑門には山県有朋(1838-1922)の揮毫による「代天工」の石額が掲げられ、盛大に行われた祝賀会には参観者が万を数え、各戸は国旗を掲揚し花火を打ち上げて難工事の遂行を祝ったと言います。
日本の鉄道建設技術の輝かしい功績となった中央本線の笹子隧道は、1931年(昭和6年)に群馬県と新潟県を結ぶ全長9,702mの「清水トンネル」が開通するまで、日本の鉄道トンネルで最長を誇っていました。
江戸時代の頃までは笹子峠の往来の中心は人や馬でしたが、明治時代になるとしだいに自動車や鉄道へと移動手段が変わっていったことで、笹子峠を越える新たな道が作られるようになります。
現在では矢立の杉を経由する現在の笹子峠は道幅が狭く曲がり道が続くことから、人も車もほとんど通ることがない、観光または甲州道中を巡ることを目的とした人が行き交うだけの物寂しい道に感じます。
笹子峠の東側から行き違う人も車もないまま登っていき、矢立の杉の脇を過ぎると、やがて笹子峠の頂付近にひっそりと佇む笹子隧道にたどり着き、ぽっかりと開けた隧道の奥には笹子峠を境にした西側の世界である国中の光が点っています。
仄暗い隧道の中を自ら歩き進み、この光の先にどのような景色を見るのか、もしかしたら笹子峠が辿ってきた歴史の一端を光の先に見させてくれるのではと期待してしまいます。

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「犬目より上鳥澤まで 歸り馬一里十二町乘り 烏澤にて下り 猿はしまで行道二十六町の間 甲斐の山々 遠近に連り 山高くして谷深く 桂川の流れ淸麗なり 十步二十步行間にかはる絕景 言語に絕えたり 拙筆に寫し難し 猿橋より駒はしまで十六町 谷川を右になし 高山遠近につらなり 近村の人家まばらに見えて 風景たぐひなし」(歌川広重「甲州日記」)
富士山の頂が白む頃のある日、東京日本橋方面の犬目峠より旧甲州街道を通って大月市へ。
心地よくも、少し冷たい風が吹き付ける旧甲州街道をしばらく歩くと、遠くに富士山が見えてきます。
山々が連なる向こうの富士山を一年を通して眺められる地に住んでいる方は、朝の家の前の掃き掃除をする際に富士山の綺麗な姿を拝めたならば、とても清々しい気持ちで一日を迎えられると言います。
バス停の近くに設置されたベンチに座って富士山を眺めていると、峠を下りてくる一団に出くわします。
旧甲州街道を歩いて巡っている一団の方々で、休憩がてら富士山を眺められるベンチに座ってみんな楽しそうにしており、天下泰平の江戸時代に流行した富士講や善光寺参り、物見遊山などでも人々はこのように道中を楽しんでいたのだろうかと思わせてくれ、これから一団の方々は大月宿のあった辺りまで歩いて行くそうです。
旧甲州街道を歩いて巡る一団に別れを告げて、旧甲州街道を下っていくたびに少しずつ富士山が木々や山々に隠れていき、緩やかに下る平坦に道になる頃には、その姿はほとんど見えなくなっていきます。


「水の月猶手にうときさるはしや 谷は千尋のかけの川せに」(道興「廻國雑記」)
鳥沢の町並みから、さらに旧甲州街道を桂川に沿ってしばらく進み、国道の新猿橋を渡らずに脇にそれた道を上がると、桂川の川幅が一番狭くなった渓谷に架かる猿橋へとたどり着きます。
緑の木々に包まれる頃の猿橋も、紅く色づく木々に包まれる頃の猿橋も、周囲の景色はどれだけ変わったとしても、どちらの季節も何百回も繰り返してここに架かっていたのかと欄干に寄りかかりながら、しみじみとした思いに浸ってしまいます。
講談や芝居などで弱きを助け強きを挫く義賊として演じられる国定忠治(1810-1850)が猿橋村で役人に追われた際に、桂川に架かる猿橋の中央から欄干を乗り越え「ドブーン」と桂川に飛び込んで逃げおおせたと伝えられていますが、猿橋の欄干から下方の桂川を望むと、なかなかの高さがあり、もし今しがた役人に追われたとしても、国定忠治のように猿橋から桂川へ飛び込む根性があるのかなとも考えてしまいます。


「甲州路も大月あたりの風はかくべつに思った。凍てついた道を戞々と踏んでゆく馬のひづめから、サッと砂まじりの粉雪を顔へもってくる。」(吉川英治「八寒道中」)
1902年(明治35年)に鳥沢駅から大月駅までの中央本線が開業し、翌年の1903年(明治36年)には大月駅から初鹿野駅(現在の甲斐大和駅)までが開業、1911年(明治44年)には東京から塩尻、塩尻から名古屋までが鉄道で結ばれます。
それに、中央自動車道が1969年(昭和45年)に調布IC(東京)から大月ICを含む河口湖IC間が開通し、1982年(昭和57年)には高井戸IC(東京)から小牧JCT(愛知)間の全線が開通します。
これにより、旧甲州街道がこれまで担ってきた役割は、国道20号や中央本線、中央自動車道を走る自動車や鉄道に置き換わることになっていきます。
国道20号は旧甲州街道の大部分を継承しているので、旧甲州街道を進むことは国道20号を進むこととそれほど変わりません。
猿橋から国道20号となっている旧甲州街道を大月の中心市街地に向けて進むと、桂川の北岸に山々を背にして東西に貫く巨大な橋梁が架かっており、これが中央自動車道だと分かります。
桂川に架かる猿橋を見た後とはいえ、この橋梁の大きさには驚かされ、甲州道中や甲州街道と呼ばれていた頃の江戸時代や明治時代に思いをどれほど馳せても、今は巨大な鉄の建造物がそびえるほどの時が過ぎた現代なのだと理解させられます。

「岩殿山で國見れば 國戀し 矢たての杉が見え候」
大月市の中心市街地に近づくにつれて、特異な様相をした山が常に目に入るようになります。
露出した断崖絶壁の岩肌に趣があり愛らしい岩殿山の南麓、桂川を挟んだ南側一帯に大月市の中心市街地が広がっており、どの場所からも岩殿山を眺めることができ、その存在は大月市にとって富士山も馴染み深い山なのかも知れません。
富士山を眺められる岩殿山城に詰めていた国中より派兵された武田の番兵は、岩殿山から笹子峠の矢立の杉を見て、故郷を懐かしんだと言います。
「上州方面にもはや、年来、甲州家に宿怨ある輩が、織田の手廻しを迎え入れて、火の手をあげ、道を塞いでいる。お館以下大勢して、無難に通れようとは考えられぬ。如かずこの上は、郡内の岩殿山にひとまず御籠城遊ばし、その上の御思案。そのまにはなお、四散したお味方も馳せ加わりましょうし……」(吉川英治「新書太閤記」)
敗走する武田勝頼が最後の拠り所として向かった岩殿山、一説には裏切った小山田信茂が岩殿山への籠城を武田勝頼に進言したと伝わっています。
裏切られた武田勝頼は岩殿山にたどり着くができず、天目山の麓で最期を迎えます。
武田勝頼が無事に岩殿山に入り、織田方の軍勢に立ち向かい奇跡的な勝利を収めて後の時代まで生きながらえたら、どのような歴史になったのかは岩殿山を見上げながら妄想してみるしかありません。
「太平洋戦争もまさに終らんとする昭和二十年八月十三日午前八時二十分思いもよらぬ無差別の空襲たちまち悲惨な血の地獄と化した都留高女このたつた数分の挙があたら十数名の尊い生命を奪う戦い終り悲しみの中に校葬を挙行遺髪を塚に納めて弔う」(遺髪塚の記)
1945年(昭和20年)、太平洋戦争(1941-1945)が終戦する二日前の8月13日の朝に大月の市街地を中心に、三隻の航空母艦から飛び立ち富士山の方向からやってきた数十機の小型の戦闘機(艦載機 グラマン F6F)による爆撃を受けます。
大小80発以上の爆弾が投下され、機銃による攻撃によって61名の犠牲者と140棟以上の建物被害を出したとされる、大月を襲ったこの空襲は「大月空襲」と呼ばれています。
特に被害が大きかったのが、物資投下用の小さな落下傘を製造する学校工場となっていた都留高等女学校であり、登校していた14歳から17歳までの女学生20名と教職員2名と用務員夫婦を合わせた24名が二発の爆弾の爆風による圧死や倒壊した校舎の下敷きになって亡くなります。
そして、別の場所では防空壕に落ちた爆弾によって13歳から17歳までの都留中学生の9名、爆弾の爆風で飛ばされ家屋の下敷きになった9歳を含めた多くの人々が大月空襲によって亡くなります。
終戦後には学校葬や追悼式典、戦没者への慰霊と平和を願って大月市内に都留高等女学校で亡くなった女学生たちの遺髪を納めた「遺髪塚」を築き、爆弾によって吹き飛んできたが厄王大権現の霊験によって被害の出なかった重さ約1.5tの大きな石を厄王山境内に「平和祈願の石」として安置することで、戦争の記憶を風化させることなく後世に伝えています。
遺髪塚からも平和祈願の石からも望める岩殿山を見ていると、どうにも悲しい気持ちになってきます。

「斯て大槻に至れは 宿の後にちまたありて 左の道は谷村を經て 富士の麓吉田 川口に至る方とそ 我は右に折れてやかて長き橋を渡り 花咲初狩なといへる宿ともを過行く」(黒川春村「並山日記」)
岩殿山を背にして国道20号を西に進むと、やがて大月橋に至ると脇に三基の道標が並んで置かれているのに気付きます。
石の道標は過ぎ去った年月によって風化し、刻まれた文字を判読することが難しくなっていますが、富士講が盛んな頃に甲州道中と富士山参詣路への分岐点として建てられたことが分かります。
三基並んだの道標のうち、1862年(文久2年)に建てられた真ん中の道標には「右甲州道中」と「左ふじミち」と刻まれ、建てられた年代が分からず上下に割れて修復した形跡がある右側の道標には「南無阿弥陀仏」とその左右に「右甲州道中」と「左富士山道」、1927年(昭和2年)に建てられた左側の道標には「右甲州街道」と「左富士街道」と刻まれており、道が右(北)と左(南)に分岐する追分(おいわけ)となっていたこの場所は「大月追分」と呼ばれています。
かつての大月追分は丁字路になっており、現在のように直進して1958年(昭和33年)に完成した大月橋を渡る国道20号か左へ折れる富士山への道ではなく、江戸日本橋から甲府に向かう際には右(北)に折れて崖沿いを進み、そして崖下の西に向かって架かっていた大月橋を渡って甲州道中を進んだと言います。
もしかしたら、ここが大月の由来となった大きな月を眺められた橋があった場所なのだろうかと、まだ青い空に太陽が輝く日中に、夜を待てずに大きな月がどこかに昇っていないかと見上げて探してしまいます。

大月追分で左に折れた場合は、しばらく進むと富士山の姿が遠くに見えてきます。
江戸八百八講と詠われた富士講の人々は、山々の向こうのあの美しい円錐形の富士山を目指して、この富士みちを南へと進んでいったのだろうと思うと、大月追分から最初に目にする景色は何か特別なものに感じられます。
「山賊の おとがいとずる 葎かな」(芭蕉)
大月追分に戻って、大月橋を渡って真っ直ぐに国道20号を西へと行きます。
桂川は大月追分から南の上流へと向かっているので、今度は支流の笹子川に沿って進んで花咲に至ると、本陣として、そして1880年(明治13年)の明治天皇の巡幸の際に「御小休」の場として使用された星野家住宅があり、その先の初狩は1683年(天和2年)に江戸の大火で被災した松尾芭蕉が実姉を頼って五カ月余りを過ごした地であり、初狩の外れには小山田信茂の首塚があります。
「土人ノ說ニハ僧親鸞此地ヲ經歴ノ折カラ吉ト云シ婦女嫉妬ノ念深ク遂ニ毒蛇ニ化シヌ 其頃ハ此地池沼ナリケレハ其池ニ入テ往來ノ人ヲ惱マシケルコト有リキ 親鸞之ヲ濟度ノ爲ニ名號ヲ石ニ書テ池ニ投セシカハ毒蛇成佛シケルトソ」(松平定能 編「甲斐國志」)
初狩を過ぎて笹子に至る道中で、毒蛇となった恐ろしい妖女の話を聞きます。
鎌倉時代のこと、この付近に黒髪が美しい「お吉(およし)」と呼ばれる妖艶な婦女が住んでいました。
お吉は嫉妬の念が深い性格で、山で修行をしていた美しい僧に心を奪われ、お吉は美僧にさんざん言い寄りますが、その思いが叶わなかったことから美僧を絞め殺し、お吉は沼に飛び込んでしまいました。
まもなくして、この沼に二十尋(約36m)の毒蛇が住み着き、通りかかる旅人を妖女に化身した毒蛇が沼に誘い込んで生気を吸い取って廃人にしてしまいました。
たまたま通りかかった浄土真宗の開祖である親鸞(1173-1262)が、数万の石に名号(みょうごう)を墨書きして、沼にその石を投じて毒蛇を済度(さいど, 苦しみから救済すること)しました。
満願の日、観世音の姿となったお吉と美僧が名号を記した石と一緒に沼から飛んでいったと伝わっています。
旧甲州街道沿いにある「親鸞上人念佛塚」「毒蛇済度舊跡」とそれぞれ刻まれた古い石柱にたくさんの石地蔵、これらがお吉の話の真実味を語っており、親鸞が6万4,384個の石に「南無阿弥陀仏」の六文字と梵字の名号を三十七日かけて墨書きして塚を築いたとされる場所からは、1730年(享保15年)頃まで、おびただしい数の名号が墨書きされた石が出てきて、割ってもすり減らしてもその名号が消えることはない不思議な石として評判になり、伝え聞いた諸国の人々の手によって石はすべて掘り尽くされてしまったと言います。
現在では、毒蛇となったお吉の話は笹子の里に伝わる「吉窪美人鏡〔親鸞聖人御法海 毒蛇済度之段〕」として笹子追分人形で演じられています。
猿橋からも遠く、岩殿山はもう見えず、ずいぶんと離れてしまったと、来た道を振り返ってみると分かります。
国道20号以前の甲州街道、そして甲州道中、甲州海道とも呼ばれた頃の道中が、いったいどのような様子だったのかをうかがい知ることはとても難しく、現代では国道20号には自動車が、山々の麓には鉄道が走るだけで、もう妖女に惑わされるほどに道中を人が頻繁に往来するような光景を見ることはないのかもしれません。


「大月の宿を出た街道は半里ほどすると爪先あがりに笹子峠へ一本道、右に清冽な流れをみながら行くこと三十町で初狩村へ入る、峠にかかる宿のことで茶店が三四軒、名物の力餅や笹子飴を売っている。」(山本周五郎「無頼は討たず」)
笹子峠まであと少し、笹子川に沿う一本道を真っ直ぐに進むと、通りの町並みで「笹子餅」と掲げられた看板が見えてきます。
1913年(大正2年)に初代鉄道大臣の元田肇(1858-1938)が「名物に 甘いものあり 笹子餅」と詠んだ笹子餅は、笹子峠の名水を使い、餅米で作ったヨモギ(蓬)入りの餅に粒あんを詰めた大福餅です。
1903年(明治36年)の中央本線の開通で笹子峠での人の往来が減ってしまう以前に、笹子峠の麓や中腹で売られていた「峠の力餅」を由来にしており、1905年(明治38年)に新たな力餅として笹子餅と名付け、木を紙のように薄く削った経木(きょうぎ)に包まれた五個入りで列車内や駅のホームで立ち売り販売されて人気を博しますが、時代の変遷とともに販売方法は変わり、現在ではこの通りでのみ笹子餅を手にできます。
笹子峠の麓までたどり着き、ここまでの道中を見渡せる大月市の西端の場所から東の景色を眺めます。
かつての旅人たちは大月市内に設けられていた十二の宿場を通ることで得られる、さまざまな経験や出会いを、それぞれが歩み進む人生の物語に書き足しながら、この笹子峠の麓までやって来ました。
現在では見ることも得ることもできない体験をした旅人たちが、ここにたどり着いて眺めた景色は、もっと味わい深かったかと思うと、とても羨ましく感じます。
そして、旅人たちは笹子峠を越えた先には何が待っているのかと期待を胸に、この難所の峠道を登っていったのでしょう。
写真・文 / ミゾグチ ジュン

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