「春日野は 今日はな焼きそ 若草の つまもこもれり 我もこもれり」(「古今和歌集」より)

「菅笠(すげがさ)」が三つ重なった形をしていることから別名『三笠山』とも呼ばれ、標高342m・面積33haの一面を芝に覆われた『若草山(わかくさやま)』。

『若草山』を覆うイネ科シバ属の『ノシバ(野芝)』は、その周辺の「固有種」であり餌付けされていない野生の『奈良の鹿』と1000年以上の時を一緒に歩むことで、もう互いに離れられない関係を築いてきました。

鹿の主食の一つである『ノシバ』は、鹿に食べられることで種子の外皮が鹿の体内を通って軟らかくなり発芽率が高まることによる種の維持と繁殖、種子を糞として遠くへ運ばれることで分布域の拡大をしています。

「みささぎは うぐひすのみささぎ。かしはぎのみささぎ。あめのみささぎ。」(清少納言 著「枕草子」より)

『ノシバ』と『奈良の鹿』の関係は1000年以上変わることなく、『若草山』の山頂に『鶯塚古墳(うぐいすづかこふん)』が築かれた4世紀末から自生しているとみられる「若草山のノシバ」は、DNA鑑定した結果から他の芝の系統と交雑がない種で、「鹿のエサ」として小ぶりで次々と葉を出し成長が早い特徴を持つ「若草山の固有種」として独自の進化を遂げてきたと考えられています。

「春日野の 雪間をわけて 生ひ出でくる 草のはつかに 見えし君はも」(壬生忠岑)

秋色に染まる若草山の山頂へは、北または南の登山道から目指します。
木々が覆う階段をあがると、芝が一面に広がる「一重目」に出られ微かに草の薫りが混じる空気を吸いながら「二重目」までの穏やかな山道を登って行きます。

振り返ると、そこからでも奈良の開けた景色を楽しむことができ、東には841年から神域として伐採が禁じられ広さ約250haの『極相』に達した特別天然記念物『春日山原始林』を眺められます。
また、若草山の山肌にはシダ植物が厚く密集しており、命の色が落ちたその姿を遠くからでも確認することができます。

登り切った若草山の「三重目」(山頂)からは、秋空の下に大仏殿に薬師寺、奈良・大和郡山・橿原・斑鳩(いかるが)の町々、生駒山・信貴山・葛城山・金剛山の山々、遠くには明日香付近の景色までを一望できます。

日向ぼっこ中の鹿が、気持ちよさそうに目を細め口をもぐもぐしています。
過去から未来へ幾百年もの時代が移り山頂から一望できる外の景色は変わって行きますが、若草山の鹿たちが和ます光景はこれからも何も変わらず、多くの人が訪れる奈良公園の東端にあり、奈良の鹿を通して春夏秋冬の生命の営みだけが繰り返される場所、ここはほど近い「安寧の地」の一つかもしれません。