「橙園明治九年始開…萩地之名産大得内外人之嗜好喝采…橙園之名誉希余子孫永保護而使斯名誉不堕地勉焉」小幡高政「橙園之記」)

明治維新後の『秩禄処分(ちつろくしょぶん)』により生活に困窮した旧萩藩士を救済し、後の主要な産業となり萩の経済を支えることになった本来の名称を『夏橙(ナツダイダイ)』(学名:Citrus natsudaidai)と言う、萩の特産物『夏みかん(夏蜜柑)』。

1772年頃、『青海島大日比(おおみじまおおひび)』の海岸に漂着した果実を『西本於長(おちょう)』が拾い、その種を庭に蒔いて育てたのが『夏みかん』の始まりと言われています。
「大日比」で実った果実は、酸味がとても強かったため誰も食することはなく、「宇樹橘(ゆずきち)」「バケモノ」などと呼ばれ子供のおもちゃとして遊ばれていましたが、果汁が多かった事により食酢の代用として使われ始めると次第に『夏橙(夏代々)』と呼ばれるようになりました。
「夏代々」とも記されたのは、実を収穫しなければ、前年の実と今年の実が同じ木になることから、「代々」続くという縁起を含んでいたからです。

1833年に萩の「杉彦右衛門」が、「大日比」から持ち帰った2本の苗の内の1本を「児玉惣兵衛」に分け与えました。
1848年に児玉家で育った木には実がなり「児玉蜜柑」と呼ばれるようになります。
収穫期が分からなかったため「柚子」の代わりや観賞用となっていましたが、子の「正介」が夏にその実を食べるととても美味しかったため、長州藩13代藩主「毛利敬親(もうりたかちか)」に献上したことから「御前九年母(ごぜんくねんぼ)」や「夏九年母」と称されるようになりました。

「九年母(くねんぼ)」とは、「種を植えてから9年で実がなる」ことが由来のインドシナ原産の柑橘類の一種で、室町時代後半に琉球王国を経由にもたらされ、皮が厚くて独特の香りがあり、江戸時代に「紀州蜜柑」が広く出回るまで公家や将軍家を中心に食べられていました。
「吉田松陰」が萩の野山獄から出した手紙「妹千代宛」には、「十一月二十七日と日づけ御座候御手紙、幷びに九ねぶ・三かん・かつをぶしともに、昨ばん相とどき…」と「九ねぶ」すなわち「九年母」と記されています。

『夏橙』は江戸時代の終わりまで、自分たちで消費する分として萩の武士や商人の家などに植えられているだけでした。

「明治九年、夏橙ヲ萩ノ物産トスルコトヲ主唱シ、同志ヲ募リテソノ栽培ヲ奨励ス。ソノ団結ヲ耐久社トイフ。」

1863年に藩主「毛利敬親」は、外国との通商に反対し「夷狄(いてき)」(外国)の排撃を主張する「攘夷(じょうい)」の決行に際して海からの艦砲射撃に弱い「萩」から内陸の「山口」へ居城を移す『山口移鎮(やまぐちいちん)』を行いました。その際に多くの武士が藩主に付き従い新しく成立した「山口藩」へと移り住んでいくことになり、藩経済に依存していた萩の城下は大きな打撃を受けることになりました。

1867年には、第15代将軍「徳川慶喜」が朝廷に統治権を返上した『大政奉還』によって、鎌倉幕府以来約680年続いてきた武家政権は終焉を迎えます。
そして、1876年には明治政府が士族に対して支給していた「秩禄(ちつろく)」(給与)を廃止した『秩禄処分』が発せられたことで、旧萩藩士含めた多く士族が生活に困窮することになりました。
『廃刀令』の施行もあり明治政府に対する士族の不満は日本各地で起こり、萩においても旧萩藩士「前原一誠(まえばらいっせい)」が首謀となり200名ほどの不平士族と共に『萩の乱』を起こしましたが、1週間ほどで鎮圧されました。

このような動乱の中、母親の看病のため小倉県令を辞して萩に帰ってきた旧萩藩士『小幡高政(おばたたかまさ)』(1817-1906)は、旧萩藩士が職を失い困窮した生活を送っている姿を見かねその救済として、すでに武家屋敷に植えられており、あまり手をかけなくても実る『夏橙』の栽培に着手します。
自ら『夏橙』の苗を買い集めて植え、一方で旧萩藩士の救済のため1876年(明治9年)に『耐久社(たいきゅうしゃ)』を結成し、明治政府の士族救済のための政策「士族授産(しぞくじゅさん)」より借り受けた資金で苗木10000本を接ぎ木し、1878年には『耐久社』社員たちにその苗木を配りました。
『夏橙』の苗木は、空き家となっていた武家屋敷の庭などを利用して植えられ、風に弱い『夏橙』にとって土塀や白壁は最適な風除けとなりました。
そして、10年後には萩の町は『夏橙』に埋まってしまうほどになり萩の特産物として『夏橙』は全国に出荷されることになります。

「長州本場 萩夏蜜柑」(萩夏蜜柑輸出仲買商組合)

1884年(明治17年)、『夏橙』を大阪方面に出荷する際に大阪の仲買商人から『夏橙』を『夏蜜柑』に改めるよう勧められ、これ以後『夏蜜柑』として広まっていくことになります。
これは、『夏橙』は「夏代々」とも記されることもあり、当時の関西地方では「中風」のことを「ヨイヨイ」と称し「代々」が「ヨヨ」と読めるため、「夏代々」を食べると「中風」になると広まり印象が良くないため『夏蜜柑』となりました。

1889年(明治22年)には、仲買商たちは「萩夏蜜柑輸出仲買商組合」を結成し、組合員の荷物には「長州本場 萩夏蜜柑」と印刷されたラベルが貼られて全国に出荷されました。
『夏蜜柑』は、他の蜜柑と比べ初夏の4月頃から旬を迎えることもあり夏の果物として多くの人に喜ばれ、1900年前後頃の生産額は、当時の萩の年間予算の8倍にもなりました。
『夏蜜柑』5個ほど(約7銭)で米1升(約1.5kg)と交換され、『夏蜜柑』の樹が3本あれば収益により子どもを上級学校に通わせることができたと言われています。
また、『夏蜜柑』を100-130個入れる「橙篭(だいだいかご)」つくりや、大きさを分ける「選果」など『夏蜜柑』に関わる仕事に多くの人が携わることで、萩の一大産業として町全体をより豊かにしました。

1912年以降の大正時代まで萩での『夏蜜柑』の生産量は全国第1位でしたが、他の県でも『夏蜜柑』が生産されるようになっていき以前ほどの収益を上げられなくなってきました。
また、萩は『夏蜜柑』の栽培に適した土地において最も北方であり、寒さによって木が枯れることや中身がスカスカになるなど「寒害」に弱く、南方の愛媛・熊本・静岡などで生産されるようになった『夏蜜柑』に比べ生産量が安定しなかったことも要因にありました。

1926年以降の昭和時代に入り、戦時で生産量は落ちますが戦後には復興から高度成長期にかけて国民のぜいたく志向の高まりや園地開発そして「寒害」を防ぐ貯蔵法の開発もあり、昭和40年代には栽培面積約700haで生産量が14000トン近くまで増え最盛期を迎えました。

しかしながら、1971年(昭和46年)にグレープフルーツの輸入自由化を境に『夏蜜柑』の価格が低迷し、しだいに様々な輸入果物が日本に入って来るようになり、消費者からは従来の酸度の高いものより、甘く糖度の高い食べやすい果物を求めるようになっていきました。
それらによって、1975年(昭和50年)から生産量と共に栽培面積も減り、2002年(平成14年)以降は平均1500トンほどで栽培面積も200haを下回るようになり、近年では生産者の高齢化や後継者不足のため耕作放棄された放任園が増加し、萩の歴史を語る上で重用な『夏蜜柑』は大きな岐路に立たされています。

初夏の萩、土塀からのぞく『夏みかん』の黄色い実り、白く小さな5弁の花からは甘い香りを漂わせます。
1926年5月に萩へ行啓した「摂政宮裕仁親王」(後の昭和天皇)が、「この町には香水が撒いてあるのか」と尋ねられたと伝えられています。

今も残る趣、左右を高い土塀で囲まれた「鍵曲(かいまがり)」の道筋を歩きながら、黄色く実った『夏みかん』の凸凹した肉厚な皮に指を入れ、ようやく剥き出た実を口にするとその酸っぱさと幾つか現れる種。
ときおり吹く風が、緑の葉々を揺らしサワサワと奏で、白い花が発する甘い香りと一緒に周囲を包み込みます。
この甘美な空間は『萩の夏みかん』の永い歴史の刹那を共有し、五感すべてを持って感じ得られる至福の地として深く心に刻まれることになるでしょう。