「若守孤城将為誰耶 人生如白馰過隙青年若守 通婚媾之好」(秋山虎繁)
江戸時代の城の中で最も高い標高717mに築かれ、高低差180mの山内の険しい地形を利用した800年余りの歴史を持つ山城『岩村城(いわむらじょう)』。
鎌倉時代に『遠山景朝(とおやまかげとも)』が築き、戦国時代に入り織田・武田の両家の抗争が激しくなってきた頃に本格的に山城として構築されていきます。
1572年に『遠山景任(とおやまかげとう)』が病死し『岩山遠山氏』が途絶えたのを期に、『織田信長』が占領し五男『御坊丸』(後の織田勝長)を遠山氏への養子として『岩村城』に入城させ、『遠山景任』の妻だった『織田信長』の叔母『おつや』を後継人にします。
『御坊丸』は幼かったため、代わって『おつや』が『岩村城』の城主となりました。
その後、『武田信玄』の武将『秋山虎繁(あきやまとらしげ)』に『岩村城』が攻められ4ヶ月に及ぶ籠城(ろうじょう: 城にたてこもり敵を防ぐこと)の末、『おつや』は婚姻を条件に開城を迫られます。
その条件を受け入れた『おつや』は、『織田信長』を裏切り武田家の軍門に下ります。
この事で『岩村城』は武田方の城となってしまい、『秋山虎繁』が新たな城主となり『御坊丸』は人質として甲斐に送られることになります。
1573年に、『秋山虎繁』は『おつや』との祝言を挙げたと伝えられています。
1575年に『長篠の戦い』で『織田信長』が『武田勝頼』を破り、嫡男『織田信忠』が3万の兵で『岩村城』の攻略に向かいます。
迎え撃つ3千の兵の『岩村城』は数ヵ月に及ぶ包囲戦の結果、武田方の援軍も来ず『岩村城』は落城し『秋山虎繁』は長良川の河川敷で磔(はりつけ)の刑となります。
『おつや』も同様に磔の刑になったとも、裏切りを受けた『織田信長』が鬱憤を晴らすために自ら斬ったとも伝えられています。
1573年に生まれた『六太夫』は難を逃れて、瀬戸内海で活動する水軍(海賊衆)である『村上水軍』に仕えますが、1600年に『関ヶ原の戦い』に絡んだ戦い『三津浜夜襲(みつはまやしゅう)』において27歳で討ち死にしたと伝えられています。
現在では『廃城令』によって1873年に解体されてしまい、残った石垣だけが昔の『岩村城』を知る手がかりとなります。
目の前に広がる城跡は、1582年の『織田信長』が討たれた『本能寺の変』後に『森長可(もりながよし)』が接収し『森忠政(ただまさ)』が引き継ぎ、その時に岩村付近の支配を任され城代となった森氏の家老『各務元正(かがみもとまさ)』が、城下を整備し岩村城を約17年の歳月をかけて近代城郭へと造りあげた姿の痕跡になります。
『秋山虎繁』と『おつや』の気配をもう感じることは難しいですが、岩村城800年余りの様々な思いが交錯した歴史がここにあった事実を、かえって石垣だけを残して大地だけが露出してしまった寂寥たる姿を眺めることで、微かな気配を求めて思いを馳せることができるかもしれません。