「我れに木太刀の一本なりともあれば」(源義朝)
第40代『天武天皇』(在位:673-686)の時代に『役小角(えんのおづの)』が「阿弥陀如来」を本尊とした「阿弥陀寺」を建立し、この地を訪れた『空海』が一千座の護摩を焚き庶民の幸福を祈り、第72代『白河天皇』(在位:1072-1086)の皇室繁栄を祈願する「勅願寺(ちょくがんじ)」として『鶴林山大御堂寺(かくりんざんおおみどうじ)』と称された通称『野間大坊(のまだいぼう)』。
1159年12月9日、第78代『二条天皇』と「院政(いんせい)」を敷いた前天皇『後白河上皇』の近臣間の対立を火種に京都で『平治の乱(へいじのらん)』が勃発します。
清和源氏の棟梁『源義朝(みなもとのよしとも)』は、1156年の『保元の乱(ほうげんのらん)』以後の待遇に不満を持っていたため、朝廷での権勢を狙う『藤原信頼(ふじわらののぶより)』と手を結び『平清盛(たいらのきよもり)』が熊野詣のため、1159年12月4日に京都を離れたのを機に『二条天皇』と『後白河上皇』を幽閉し、上皇の近臣で政治の実権を握っていた『信西(しんぜい)』(藤原通憲)を殺害します。
「かひこぞよ 帰りはてなば 飛びかけり はぐくみたてよ 大鳥の神」(平清盛)
12月16日、平氏の拠点「六波羅(ろくはら)」に戻った『平清盛』は、『二条天皇』の側近「藤原惟方(これかた)」と「藤原経宗(つねむね)」と謀計し、『藤原信頼』に臣従(しんじゅう:臣下として従う)するふりをし、気の緩んだ『藤原信頼』の隙を突いて『二条天皇』を「六波羅」へと避難させ、『後白河上皇』を「仁和寺(にんなじ)」へと脱出させます。
12月26日、朝敵として追討の「宣旨(せんじ)」が下された『源義朝』と『藤原信頼』は『平清盛』との合戦となりますが、多勢に無勢だった『源義朝』と『藤原信頼』は「六条河原」で敗れ、多くの家人(けにん:家来)を失いながら『源義朝』は戦場から脱出します。
『藤原信頼』は「仁和寺」にいた『後白河上皇』に助命を願ったが、謀反の張本人として公卿でありながら「六条河原」で斬首となりました。
一夜にして朝敵となった『藤原信頼』は、天皇と上皇を奪われた不手際に『源義朝』から「日本一の不覚人」と罵られたと伝えられています。
勢力挽回を図るために東国へ落ち延びた『源義朝』は、東海道を下るが度重なる追撃を受け馬を失い、尾張「野間」に裸足でたどり着き相伝の家人であった『長田忠致(おさだただむね)』と子『長田景致(かげむね)』のもとに身を寄せました。
「三人の者どもはしりちがひてつと入、橘七五郎むずとくみ奉れば、心得たりとて取て引よせ、をしふせ給ふ所を、二人の者ども左右より寄て、脇の下を二刀づゝさし奉れば、心はたけしと申せども、『鎌田はなきか、金王丸は。』とて、つゐにむなしくなり給ふ。」(「平治物語」より)
『長田忠致』と『長田景致』は、逃走の身である『源義朝』はいずれ誰かに討たれてしまうなら、我らの手柄として平氏から恩賞を得ようと『源義朝』の暗殺を計画し、年が明けた正月3日に密かに屋敷に郎党を集めます。
湯浴みを勧められた『源義朝』は湯殿に入り、隠れた三人の者がその姿を伺うが「渋谷金王丸(しぶやこんのうまる)」が刀を持って垢すりのために湯殿に入ったので討つことができません。
浴衣が用意されておらず、「渋谷金王丸」が怒り、催促のために湯殿を走り出た隙を突いて「橘七五郎」が湯殿に走り込み『源義朝』を組み伏せ、二人が左右から駆け寄り『源義朝』の脇を二度ずつ刀で刺し、心は勇猛であったが「鎌田はいないか。金王丸は」と発しながら『源義朝』は絶命しました。
『鎌田政清(かまたまさきよ)』は義父『長田忠致』と酒を飲んでいたが、この騒ぎに気付き立ち上がったところを、酌をしていた男に刀で二度刺され、後ろから『長田景致』により首の根元を打って打ち落とされ『源義朝』と同じ38歳の生涯を閉じました。
「渋谷金王丸」は難を逃れ、『源義朝』の死を京都の側室「常盤御前(ときわごぜん)」に伝えました。
京都へ送られた、『源義朝』と『鎌田政清』の首は、正月9日に見せしめに首を晒す「獄門(ごくもん)」にかけられます。
『平治の乱』により『平清盛』は、朝廷での政治的な地位をより高めると共に、源氏の有力武将が滅亡したことで軍事をも掌握した武家政権樹立の礎を築くことになりました。
「埋木の花 咲く事も なかりしに 身のなる果は あはれなりける」(源頼政)
後に「鎌倉」に居を構え、1192年には「征夷大将軍」となる13歳の三男『源頼朝(よりとも)』は、父『源義朝』敗走の際に捕らえられ伊豆の「蛭ヶ小島(ひるがこじま)」に流刑となり、1歳の九男「牛若丸」(源義経)は二人の兄「今若丸」(阿野全成)「乙若丸」(源義円)と共に母「常盤御前」に連れられて「大和」(奈良)に逃れます。
一方、『源義朝』を討ち取った功で『長田忠致』は「壱岐守」を、『長田景致』は官職「左衛門尉(さえもんのじょう)」を『平清盛』により任じられますが、『長田忠致』は不満を漏らし「尾張」か「美濃」の地方官である「国司(こくし)」を望んだことで『平清盛』の激しい怒りを買い、主君である『源義朝』を裏切った罪を指摘され慌てて引き下がりました。
時は移り、1179年11月に『平清盛』は軍勢を率いて京都を制圧し『後白河法皇』を幽閉する『治承三年の政変』が起こります。
1180年4月、『後白河法皇』の皇子『以仁王(もちひとおう)』は平氏追討を命じる「令旨(りょうじ)」を諸国の源氏に発しました。
5月26日、『以仁王』の企ては平氏に露見し『源頼政(よりまさ)』と共に宇治で平氏と戦いますが惨敗し『源頼政』は自刃、『以仁王』は敗走中に矢に当たり戦死します。
6月24日、33歳となった『源頼朝』は挙兵を決意し坂東(ばんどう:関東地方の古名)の各豪族に呼びかけ、8月17日に『源頼朝』の命で義父「北条時政(ほうじょうときまさ)」が、伊豆の「目代(もくだい:国司の代理)」である「山木兼隆(やまきかねたか)」(平兼隆)の館を強襲したことで、源氏が平氏を滅亡させる1185年3月24日の『壇ノ浦の戦い』までの源平合戦の幕があがりました。
「ながらえし 命ばかりは 壱岐守 美濃尾張をば いまぞたまはり」(長田忠致)
『源頼朝』が挙兵した際に、『長田忠致』と『長田景致』の親子は十騎ほどで駆けつけ自らの罪状を訴えて降伏します。
すると『源頼朝』から、軍功があれば罪を許し恩賞として「美濃」と「尾張」を与えると約束し、その寛大さに喜んだ長田親子は平氏討伐においてしばしば手柄を立てます。
平氏が滅亡し覇権を握った『源頼朝』は長田親子に対して恩賞をとらせると呼び出して二人を捕らえ、父『源義朝』の墓の前で残虐な「土磔(つちはりつけ)」に処し、その折りに『源頼朝』が「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言ったと伝えられています。
「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」(織田信孝)
『源義朝』は、襲われた際に「我に木太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん」と無念を叫んだと伝えられています。
『野間大坊』の境内にある『源義朝』の墓には菩提を弔うため、花の代わりに幅約3cmで長さ約40cmの木太刀を供えるのが習わしとなりました。
山となり幾度となく積まれであろう木太刀の数だけ無念さが伝わってきますが、いつしか祈願成就の武将『源義朝』としても木太刀をお供えるようにもなり、長い年月と人々の供養の思いが伝わりわずかでもその無念さが救われたのかもしれません。
『織田信長』の三男『織田信孝(のぶたか)』の墓もまた『野間大坊』の境内の一角にあり、1582年の「本能寺の変」後に『羽柴秀吉』と共に『明智光秀』を討ちますが、織田家の跡継ぎを決める「清洲会議」で「本能寺の変」に際し自刃した長男『織田信忠(のぶただ)』の子である3歳の幼い『三法師(さんぼうし)』(織田秀信)が家督を継ぐことになり『織田信孝』はその後見人となりますが、織田家の実質の主導権は『羽柴秀吉』が握ることになります。
『羽柴秀吉』と対立し、跡目に『織田信孝』を推した『柴田勝家』は1583年の『賤ヶ岳の戦い』で敗れ自刃し、『織田信孝』は「岐阜城」にて『織田信雄(のぶかつ)』に包囲され降伏します。
『大御堂寺』(野間大坊)に退いた『織田信孝』は兄である『織田信雄』より切腹を命じられ自刃しました。
切腹した際に『織田信孝』はその無念を表すため、腹をかき切り腸をつかみ出すと、床の間の梅の掛け軸に臓物を投げつけたと伝えられています。
上空を厚い雲に覆われ風が吹かないこの日の『野間大坊』は、数々の無念の気を孕んだ重い空気をまとっているように感じられます。
1190年に『源頼朝』が創建した「大御堂寺大門」の近くには『血の池』と呼ばれる長田親子が『源義朝』の首を洗ったされる池があり、国に変事が起こると池の水が赤くなると言われてますが、遠くから眺めると赤茶けた落ち葉が浮かぶ池は濁った血の色に見えてきます。
『源義朝』の墓を中心に囲むように『鎌田政清』の墓と後を追い自刃した妻の墓、そして『織田信孝』の墓が建てられ、永い年月をかけ漂う念がこの一角に暗い陰を落としています。
しばらくすると、厚い雲の切れ間から差し込んだ太陽の光が、墓一帯に落ちていた陰を明るく照らし、無念への供養として安らぎを与えるような暖かで穏やかな風が吹いてきました。
そして、『血の池』は枯れ葉を浮かせ、降り注ぐ光を水面で輝かせた何の変哲もない池に戻っていました。