「吹なびく はた手にまがふ浮雲も はれて行衛や しらさぎの松」(雁返舎)

敦賀湾の最奥に面し長さ約1.5km・広さ40万平方メートル(国有林は長さ約1km・広さ32万平方メートル)、アカマツ(約8000本)を優占にクロマツ(約5000本)など約17000本の樹木が生い茂り、『三保の松原(静岡)』・『虹の松原(佐賀)』と並び称される白砂青松の名勝『気比の松原』。

気比(けひ)の松原には『一夜の松原』伝説が語られており、奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)の建立の詔を出した『聖武(しょうむ)天皇』が治めた時代(在位:724-749)、蒙古が突如攻めてきた時に『角鹿(つぬが)』の浜辺に一夜にして数千の松が出現し、その松に『氣比神宮』の神使(しんし:神の使い)である白鷺(しらさぎ)が無数に飛来し、蒙古はこれを大勢の軍と見て慌てふためき退散したと伝えられています。

『角鹿(つぬが)』は『古事記』『日本書紀』に記されている『敦賀(つるが)』の古名で、日本書紀には『垂仁(すいにん)天皇』の時(B.C.29-70)に『意富加羅国(おほからのくに):古代朝鮮南部』の王子『都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)』が『笥飯(けひ)浦」に来着し、王子の額(ぬか)に角(つの)があったことからこの地を『角鹿』と称したとも言われています。
また、『敦賀』となったのは、713年に全国の地域の表記を『唐(とう:中国の王朝)』に倣い2文字で縁起の好い字にせよと勅令(諸国郡郷名著好字令:好字二字令)が出されたためとされています。

「笥飯の海の 庭よくあらし 刈薦(かりこも)の 乱れて出づみゆ 海人の釣船」(柿本人麻呂)

『笥飯(けひ)』は食糧(箱中の飯)を意味し、古来より朝廷へ海産物を献上しており『笥飯宮(氣比神宮)』に隣接した浜を『笥飯浦』と呼び、古事記における食物を司る神『御食津(みけつ)大神』と同義で「食物(け)の霊力(ひ)」から由来し、後に転訛し『氣比』となったとも言われています。

気比の松原は、1570−73年に『織田信長』が『朝倉義景(よしかげ)』を討つために越前に侵攻し没収されるまで氣比神宮の『神苑(しんえん:神社に付属する庭園)』となっており『神人(じにん・じんにん:神社に仕え宗教的・身分的特権を有した者)』によって管理され、地域の住民は松原内の枯松を薪(たきぎ:燃料にする木)としての伐採や松葉を拾う松葉掻きをする際には神人の許可を取っていました。

江戸時代に入ると気比の松原は小浜藩の『御用木(藩有林)』となり、補植などの管理や許可のない伐採を禁止にし、住民は生活燃料としての薪の採取に小浜藩への許可と税を払うことで松葉掻きをおこなっていました。
これらの規制が結果的に気比の松原の景観を保つことになり、浮世絵師『歌川広重』が『六十余州名所図会』の中で『敦賀 氣比ノ松原』を描き、狂歌師『柿谷半月(雁返舎)』が『敦賀風景八ツ乃詠』の中で『白鷺松晴嵐』としてその眺望の美しさを広く伝えることになりました。

「曽経駐輦處 黎首憶甘棠 松籟如奏曲 海濤和洋々」(勝海舟)

明治の世になってからは『官有林』となります。
明治11年(1878)、『明治天皇』が北陸巡幸の際に『気比の松原』に立ち寄りました。
後の明治24年(1891)に『勝海舟』がこの松原を訪れ、かつて明治天皇がこの白砂青松の景色を眺めたのを回想して漢詩を詠みました。

—-「ここは、かつて明治天皇が、お乗物をとどめて景色をご覧になられた所である。国民は明治の善政を喜んでいる。松風の音はあたかも音楽を奏でているようであり、波の音もこれに調子をあわせて、まさに洋々たる日本の前途を祝福しているようである。」—-

1899年に『国有林野法』によって『国有林』となり、当時約76万平方メートルあった気比の松原は、明治40年代から大正にかけて各所に譲渡・売却され約65万平方メートルに、1943年には船舶用材として約32万平方メートルが払い下げられ約2000本の松が伐採されました。その後は住宅地や道路用地に活用され現在の国有林の広さになりました。

1959年頃からの生活様式の変化によってガスや石油燃料が一般家庭に普及し、松原の枯木の伐採や松葉を拾う松葉掻きが無くなったことで、気比の松原は雑草や雑木によって荒廃しその景観を失うことになりましたが、1967年から有志で結成された市民団体によって松葉掻きなどがおこなわれ、以前のように美しい姿を再び取り戻すことができました。現在でも将来にわたって名勝として誇れる景観を市と地域とともに協力して維持することに尽力されています。

樹齢を重ね深緑の葉を揺らす松林に延びる遊歩道を歩くと、強い日差しは心地よい木漏れ日として落ち、海からの潮風は気持ちいいそよ風として吹いてきます。
その松林の一角に腰を下ろし、白く光り輝く砂浜と若狭の海を眺めている人たちの後ろ姿は、きっと幾百年前から変わらない『気比の松原』と人とが交わる光景としてこれからもずっと続いていくのだろうと感じられます。

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「彼城の有様、三方は海に依て岸高く巌滑也。」(太平記)

鎌倉幕府の成立に繋がった源平合戦『治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)』(1180-1185)の時に、平通盛(たいらのみちもり)が源義仲(みなもとのよしなか:木曾義仲)との戦いのために敦賀湾に突き出た金ヶ崎山(海抜86m)に築いた山城『金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう)』。

「月いつこ 鐘は沈る うみのそこ」(松尾芭蕉)

大覚寺統の『南朝』と足利尊氏が擁立した持明院統の『北朝』が対立した『南北朝時代』(1336-1392)に、金ヶ崎城に籠城する『新田義貞(にったよしさだ)』と後醍醐天皇の皇子『尊良親王(たかよししんのう)』の南朝方の軍勢と『斯波高経(しばたかつね)』の北朝方の軍勢とが戦った『金ヶ崎の戦い』(1336-1337)で、籠城の末に南朝方が破れる際に義貞の子『新田義顕(よしあき)』が『陣鐘(じんがね:軍隊を進退させるなどの合図をするときに打つ半鐘)』を海に沈めました。
後に海士(あま)に海底を探させたが陣鐘は逆さに沈んでおり、竜頭(りゅうず:釣鐘の頂部につけた竜の形をした吊す部分)が泥に埋まり引き上げることができなかったと言われています。

織田信長は、越前の朝倉義景と戦った『金ヶ崎の戦い』(1570)において同盟関係にあった北近江の浅井長政(あざいながまさ)の裏切りにあい越前と北近江からの挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が殿(しんがり:退却の時に迫る敵を防ぐ最後尾の部隊)を務め徳川家康が後衛(こうえい:退却の際に軍隊の後方で援護する部隊)となり、敦賀から京へ繋がる街道が通る朽木村を越え(朽木越え)て、京へと逃げ延びました。

かつての激戦の舞台となった『金ヶ崎城』は、もう当時の面影を痕跡として見るだけになります。
多くの兵と名のある武将達が、この道を駆け上がり命をかけて戦った数百年前からの足跡を、三の木戸跡・尊良親王の自刃地・月見を楽しんだであろう月見御殿跡・焼米が出土した焼け落ちた兵糧庫跡など、一つ一つの微かな歴史の揺らぎをたどることができます。

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「月清し 遊行のもてる 砂の上」(松尾芭蕉)

氣比神宮(けひじんぐう)』は、主祭神に『伊奢沙別命(いざさわけのみこと)』を祀(まつ)り、『笥飯(氣比)大神(けひのおおかみ)』または『御食津大神(みけつのおおかみ)』とも称せられ食物神としての性格を持っていることから敦賀が海産物を朝廷へ貢ぐための地であったことを示していると言われています。
702年に『文武(もんむ)天皇』(在位:697-707)によって社殿を造営され、本宮に仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后を合祀し、日本武尊(やまとたけるのみこと)を東殿宮、応神(おうじん)天皇を総社宮、玉姫命(たまひめのみこと)を平殿宮、武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を西殿宮に奉斎(ほうさい:謹んで祀ること)して『四社之宮』と称しました。

南北朝時代以前には、北陸道の『総鎮守(そうちんじゅ:鎮守の神社をまとめる)』とも称し、越中・越後・佐渡にまで及ぶ社領をもっていましたが大宮司(だいぐうじ:神社の神職の長)の『気比氏治(うじはる)』が南朝方につき居城『金ヶ崎城』で奮闘しましたが敗れ一門は討ち死にし社領を減らすことになりました。
戦国時代には、大宮司が朝倉氏に加担したため織田信長の越前侵攻により社殿のほとんどを焼失し、朝倉氏滅亡とともにすべてを没収されることになり衰退することになりました。
1604年に、越前北ノ庄藩(後の福井藩)初代藩主であり徳川家康の次男であった『結城秀康(ゆうきひでやす)』によって社殿造営がなされ再興されました。

氣比神宮には、『春日大社(奈良)』・『厳島神社(広島)』と並び『日本三大木造鳥居』と呼ばれる高さ10.9メートルの朱塗りされた木造の大鳥居が残っています。810年に境内東側に建てられましたが1343年の暴風によって倒壊しており、1645年に旧神領地の佐渡国鳥居ヶ原から伐採・奉納した榁樹(むろのき)によって再び建立されました。
1945年、市街地の8割が被災した『敦賀空襲』によって境内にある本堂を始め多くの建造物が焼失する中、大鳥居のみが唯一その戦火を免れました。

敦賀の太古の歴史を語り、重要文化財である朱塗りの大鳥居が象徴の『氣比神宮』。
702年の造営の際に大岩から湧き出たと言われる『長命水』は、一口飲めば一年を健康に過ごせると伝えられ、1936年に陸軍関係者が武運を祈願して境内に献木された『ユーカリ』が北陸の寒冷地で生育することは珍しく、その立派な佇まいとともに氣比神宮の神秘を垣間見ることが出来ます。